JR北海道で線路幅が基準値からずれていたのに放置されていたことが問題になっている。脱線事故の原因究明の過程の中で、報道されるようになった。これはずさんな経営ではあるが、根本原因はJR北海道の財務情況が芳しくないことであると思う。同じような情況にあるのがJR四国であり、橋桁の修理もままならない情況であるとのことである。サンデーモーニングで河野洋平氏が、「国鉄分割民営化の時に既にこのような情況になることが解っていた。解決はこの時の問題点に戻ら無ければ出来ない(細かいところは間違っているかもしれない)」と言っていた。何故、河野洋平氏が解っていたことに目をつむって、分割民営化したか?おそらく、河野洋平氏の理解は中途半端であると思う。つまり、国は民営化されたJR#に、地方の採算のとれない路線を廃止して、採算のとれる様にスリム化することを期待したのではないだろうか。つまり、国の行政としては出来ない地方切り捨てでも株式会社なら出来るので、後の処理を民営化後のJR#に任せたというのが本当のところではないのか。その厳しい仕事が、出来なかったのは、中途半端な形で国との癒着がのこっていた事が一つであり、もう一つは私企業として経営が出来る優秀な人材を経営者として据えなかったことだと思う。力のある人がJR東海やJR東日本などの良いポストを取り、残った人がJR北海道などに配属されたのでは。この重要な人事の問題を、政府主導で行なわなかったのではないのか。
ここで更に書きたいことは、JRについての上記議論を一般化して、過疎化への対応という問題についてである。一般に、経済構造が変化した時に、人の再分配が行なわれるのは必然である。誰でも生まれ育った土地に愛着があり、不便だがその場所に残る人も多いだろう。しかし、それは元々個人の選択の問題であり、その不便さや経済的困難な情況を、過疎(過度に疎になる)という言葉で表現するのは、正直に言わせてもらえば、一寸身勝手である。それは、地震などの天災で損害をうけた人は、本来自己の努力で、その損害を引き受けなければならないのと同様である。経済構造の変化は明らかなので、予見可能な分、天災に見舞われた人よりは対応は簡単だった筈である。他の地方の人が出来ることは、その自助努力への善意に基づく協力という範囲に限られる。一方、日本に於ける“民主政治”は、一票の価値を過疎地に2倍程度有利にしており、その結果、地方の過疎化を異常事態と捉え、その解消を政府の重点課題の一つとしている。人口再分配の経過措置として予算を計上するのは、行政としては当然のことであるが、それを阻止する方向で行なうのは間違っている。もちろん地方の自治体が新しい人を引きつける手段を創造すれば話は別であるが、中央政府の仕事ではない。
更に一般化すれば、国民の間の危険や不幸を最少にすべく、本質的及び制度的な面で行政が関与するのは重要な仕事であるが、個々の災害や不幸は、セイフティーネット的なものは別にして、個人の負うべきことである。そこのところを国民に、正しく理解してもらうという努力を、日本の行政は十分行なっていないのではないのか。
注釈:
(1) JRは民営化された後の一定期間は、国(清算事業団など)との繋がりは継続されるが、その後は一私企業としての責任を果たすべきである。
0 件のコメント:
コメントを投稿