I) 石原環境大臣は、19日の参院環境委員会において、東京電力福島第1原発事故の除染で出た汚染土の中間貯蔵施設建設予定地である、大熊及び双葉両町の姿勢に関して、「最後は金目でしょ」と発言したことを撤回し、「国会終了後速やかに福島を訪ね、直接おわびしたい」と述べた。しかし、辞任するかとの問いには、「職務をしっかり丁寧に全うしたい」と述べたという。
これで収まるのなら、国会議員の公式の場でなされた発言が、この国では非常に軽いことになる。国の最高機関での発言においても、都合が悪くなれば何時でも撤回できるのなら、ことばに信用など始めからないことになる。小中学校で、「自分の発言には責任を持て」と教えることが、できない。何せ、大臣様がいい加減な発言を何時でも出来るし、翌日でも撤回自由というのだから。
しかし、自然科学という「ことばと論理の世界」に浸かって来た私には、見えなくなっているものがあったのである。そして、”日本人の心”を取り戻して良く考えると、彼らが何を主張しているかが判って来た。つまり、表題に書いた様に、日本人の重要なる意志伝達手段は、“誠意”であり、言葉は誠意を包む包装紙に貼ったラベルなのである。石原伸晃さんは、「“誠意はある”昨日はちょっと半分破れた包装紙だった」と言っているのである。今日、「まともな包装紙に包み直します。「国会終了後、直接謝罪に東北に出向きます」と言って、いいかげんな包装紙に間違ったラベルを貼ってしまったが、誠意は本物で変化はないといっているのだ。従って、それ以上の追求は、かわせる筈である。正気(日本人的思考)に戻った石原伸晃や山本一太などの、所謂”ずる賢い政治家”はそのことを体の芯から体得している。
II)昨日、ソシュールの言語学入門書の読後感想文で、”ことば(言語活動)”は元々連続的で混沌としていた世界を不連続化し、夫々に表現と意味を与える相互異化活動であると紹介した。それは、西欧人の意志疎通のための“言葉”の話である。日本国では、言語の異化活動の及ぶ範囲は、世界の中の表だけであり、世界の裏は、その異化活動に含まれない。従って、この国では”ことば(ソシュールのランガージュ)”の異化活動は限定的で、”ことば”は中途半端な形で出来上がる。それを埋め合わせる様に、日本(東洋)には、ことば(ラング)に相当するものの他に、ソシュールがほとんど見落としていた意志を伝達する社会的契約として“誠意”が加わって、意志の伝達手段が完結する。(注1)
つまり、「金じゃない誠意が大切だ。」「言葉じゃない態度で示せ。」というのが日本の意志伝達の文化である。契約条項は言葉で書かれているが、それは紙切れであり、包装紙(表の世界)である。それで誠意を包み込み相応しい態度と儀式(裏の世界)で相手に渡さなければならない。契約の成立には、言葉が包み込む、本心つまり心の中の本質である誠意が最重要になるのだ。(注2)
つまり、“言葉”が意思伝達手段である西欧でのように、論理を尽くして説明しても通じない場合でも、日本国では現地へ出向くという態度などで誠意を示せば通じる可能性がある。その上で「頭を下げる儀式」をしなければならない。金はその次に、失礼ですけれども、これを何とか(反対の態度を)収めてもらえませんでしょうか?と言って差し出すのである。もちろん、どれ一つ欠けてもいけないのは言うまでもない。それが“誠意ある態度”の式次第である。言葉を用いて論理を展開するのは、この東の端の日本国では野暮なやり方である。それは、西欧文化から借りて来た“建前”を飾るものに過ぎない。最終的に大切なのは“誠意”と”それがこもった態度”なのだ。日本国が、明治以降行なった近代化とよぶ西欧化は、表向きだけなのだ。科学や技術という西欧の産み出したものは、利用させてもらう。しかし、日本人の魂を売り渡した訳ではない。
III) ところで、その誠意とは一体何なのか? しばらく考えてみて、それらしいものが見つかった。それは、感情共有の確認である。今回の場合、故郷に住めなくなった家族なら、自分達の気持ちがわかるだろう。その気持ちを共有するのが、誠意であるらしい。ただ、人間は心の中がのぞける訳ではない。そこで、現地に出かけ、そこの住民達に悔しさがあるのなら、その悔しさを共有することを態度で示さなければならない。その悔しさが共有出来れば、頭をさげ、失礼ながらと言って補償金を差し出すのは、自然な態度としてでてくるであろう。
つまり、家族的な感情の共有とそれを裏付ける態度と賠償額、それらがセットになって、相応しい言葉というラベルを貼って包装されていなければならないのだ。それが、意思伝達のワンセットである。屢々、「相手の気持ちになって、物事を進めなければならない。」というが、この”相手の気持ちになるのが”誠意”である。
IV) 山本七平氏はこのようなプロセスの分析をして、「空気の研究」を書いた。重要な記述がその中にあった。「従って、我々は常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そして、我々が通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、”空気が許さない”という空気的判断の基準である。」
空気は、誠意のような感情の共有により創りだされる支配の力であり、もっとマクロな概念である。しかし、この二重基準の構造という本質は上記の議論と相似形をなしているし、原因も同根である。(注3)
注釈:
1)世界の表とは目に見える範囲である。世界の裏とは目に見えない心の中の意味。西欧人も使う、身振りや手振りはことばを判りやすくする手段ではあるが、ことばの意味をひっくり返すほどの意味はない。一方、日本の誠意の有る無しは、ことばの意味を判定する。
2)中身と包装紙の関係は逆でもかまわない。契約条項は紙に書くので、それを包装紙とした。
3)心の中に神(一神教の)が入り込む西欧では、出来上がっている言葉は同じ宗教の下では効率よく意志伝達に使える。それは言葉の相互異化現象の対象とする世界が、完全だからである。しかし、東アジアの国では、その相互異化現象が心の中に及ばないので、発した言葉と心の中とは異なる。それが東アジアにおけるダブルスタンダードの原因である。従って西欧のダブルスタンダードは、背教の徒によるので、社会全体からみて犯罪色が強いと思う。
(2/20/8:00;2/21/6:00改訂;2/23注3追加)
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