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2015年4月26日日曜日

若者の間での凶悪犯罪を考える:感情を共有出来ない人の増加

1)今朝のテレビで、痛ましいあの事件が報道されていた。ある少女が知人である少女を、金銭トラブルを理由に男性数人を使って殺し、土中に埋めたという、千葉での事件である。最近この類いの事件が増加している。

この種の事件の報道に触れる時何時も思うのは、犯人と被害者の間に殆どコミュニケーションが成立していないことである。何故なら、数万円か数百万円か知らないが、殺人及び死体遺棄の加害者と被害者になる程の事ではないので、話が通じれば何らかの別の解決法があった筈だからである。

金銭トラブルから互いに感情的になり、殺人に至ったのだろうが、その直前まで犯人側のいらだちが被害者にほとんど伝わっていないのだろう。また、犯罪行為の際、被害者側の悲惨な状況や恐怖が、その1/1000も犯人側に伝わっていない(注1)。それは、少なくとも同じ場所を共有する人同士なら、見ず知らずの間でも感情を共有するという人間本来の性質が、この若者達には存在しないことを示している。言葉を用いることが出来、且つ、感情が共有できる人間として生まれていながら、言葉を失ったライオンとシマウマの様な存在になっているのだ。

2)一般的に、言葉でコミュニケーションをとる場合、その前提として、同じ物理的且つ言語的空間に、自分達は居るという確認がなされる必要がある。それは、人間同士であるという確認、そして、コミュニケーションの目的の確認である。通常それは、両者の間に生じている雰囲気で言葉を用いずに自然進行的になされる。雰囲気或いは日本人がよく用いる“空気”は、感情の共有の別の表現である。

人は社会を作って生きる動物であるため、人と人の間には無条件に親和的感情が存在し、それを背景にして会話、つまり、コミュニケーションをとる。つまり、コミュニケーションを始める必要十分な条件は、この人と人の間に存在する親和的感情だと思う。もちろん、争いの際も悪意を持ったコミュニケーションが当事者間でなされるが、それはそれまでに積み上げた善意のコミュニケーションがあったから存在しうるのである。もし、最初から人と人の間に悪意だけが存在するのなら、例えば、他人は縄張り争いの相手でしかないのなら、言葉による応酬はなく、出会った瞬間から物理的攻撃が始まる筈である。

この人同士の感情の共有は、あらゆる文化的活動の必須条件であると思う。ドラマを観て、ある場面で貰い泣きをし、別の場面で主人公と同じ怒りを感じるのでなければ、文学も何も存在しないだろう。その感情を共有する能力を先天的に欠いているのが、サイコパスだと思う。ニューヨークでも10万人くらいサイコパスの人がいるというのだから、それに近い心理構造をもった人はそれ以上いるだろう。サイコパスの人にとっては、他人は自分の利益の為にしか存在する資格はない。

感情を共有する性質の導入は、幼少期から少年期に育児や初等教育の過程でなされると思う(注2)が、その段階で十分訓練がなされない場合、サイコパス的な人が増加するだろう。それが最近苛めなどが増加している本質的な原因だと思う。どの様にして、正常化するかは、次の機会に考えることにする。

注釈:
1)戦場などでの相手を殺さなければ、自分が殺されるという状況ではない。加害者と被害者の立場では、加害者には想像力などが働く程度に十分な心理的余裕がある筈である。
2)少年期には残酷な性質が誰にでも残っている。従って、苛めは心理的未成長な子供に起こる現象であると思う。

アゲハとさつきの間のコミュニケーション? 今朝撮った写真である。

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