楢山節考を読んで考えたこと
楢山節考は、深沢七郎作の有名な小説であり、題材は山梨県か何処かの寒村に残る姨捨山伝説だと言う。(注釈1)
山村の慣習として、古来棄老が行なわれていたのは事実だろう。その背景は云うまでもなく、慢性的に食料事情の逼迫である。その村及びその周辺で生きることが出来る人数が、主に田畑での食料生産能力で決っており、毎年産まれる新しい命があれば、その皺寄せは容易に想像できるように、これから産まれる予定の子供と老人に向う。
しかし、表の文化として存在したとしたら、楢山節考にあるような形だろうと思う。つまり、村人の生活の中心に、神格化された山が存在して、そこへ一定の年齢になれば老人を移す。その山の祭りを毎年最重要な行事として行う。更に、山に入る老人の家では前日に、過去に山へ親などを送った経験者に対して、祝いの酒などを振る舞うのである。呼ばれた経験者は、付き添うその家の主に対して、山に入る手順と掟を一つ一つ伝える。それは神の存在する山に上がる祝いであるが、死出の旅へ向う老人との別れの宴でもある。別れの杯は祝いの杯と重なることで、互いに難行に向う勇気を与えるのである。
山に入るときに出来ることはただ黙っていること、老人を山に残して帰るときには振り返らないこと、残された老人が出来ることは精一杯念仏を唱えることである。そして、家族に出来ることも、過去を振り返らないことである。次の日から必死に生きることが、遺棄した老人に対する義務であり、子供達の生命力や無知と無感覚がそれを助けるだろう。
日本文化の原点を見る様な思いで、この小説を読んだ。神道のオリジナルな形の一つとして、山岳信仰がある。白山や御岳山など信仰の対象となる大きな山には深い未開の山林がある。7-8年前に狭い途を岐阜県側から御岳山に向ってドライブしたことがある。この小説を読み終わって、その谷の深さを想像した。(感想文には再度挑戦の予定)
注釈:
(1)一般には棄老伝説という。実際に老人を遺棄することが慣習としてあったかどうかについては、否定的な考えも多い。姨捨山は実際に存在するが、それも似た発音の別の名前から変化したらしい。https://ja.wikipedia.org/wiki/姨捨山 以下に私が書いた粗筋を掲載するが、ずっと短い粗筋はウイキペディアにある。https://ja.wikipedia.org/wiki/楢山節考
すこし長くなってしまったが、以下に粗筋を書く。
村から七つの谷と三つの池を越えた所に楢山があり、その山には神が宿るとされている。村の重要な行事は盆の前日の楢山祭りであり、各戸では楢山参りが重大時である。楢山参りとは、70歳になった家の年寄りを楢山に送り出すことを言う。おりんと付き添って行く辰平の親子も今年がその楢山参りの年であった。他の行事は、それらと比較して大きな意味がなかった。正月もただ外に出ないというだけであり、結婚もただ一緒に住む様になるというだけである。
楢山祭りの当日おりんは、家の前に座っている隣村から一人で来た既に息子辰平の後妻と決っていた“お玉”に気付いた。おりんは、お玉を家に招き入れ、食事を振舞った。それが息子の辰平の再婚であった。辰平の再婚には16歳になる長男けさ吉は反対をしていた。その理由は、付き合っている女の子“松やん”が居て、後で解ったのだが、妊娠していたのである。一月ほどして、いつの間にか松やんは家に上がってくる様になった。それがけさ吉の結婚であった。
松やんは食い扶持を減らす為に、早めに実家を追い出されたようであった。食料難のこの村では、歳相応に歯が抜けず、おりんのように揃った歯は恥であった。お玉が後妻に来た時に思いきって、石臼の角に歯をぶつけて欠いた。口中血だらけになり、恐ろしい顔つきになり、小さい子供達には本当に鬼婆と思われる様になってしまった。
楢山まつりの後、秋になったある日の夜、急に外が騒がしくなり「楢山様に謝るぞ!」という奇妙な叫び声が聞こえた。盗人が出たのである。雨屋の亭主が隣の家に忍び込んで、豆のかます(叺)を盗んだところを家中の者に袋だたきにされたのだった。
食料を盗むことは重罪であった。最も重い「楢山様に謝る」という制裁の対象にされるのである。駆けつけた者が、その家の食料を奪い取って、皆で分け合ってしまうのである。抵抗には、出向いた男どもが戦わねばならない。両方とも必死である。その後の家捜しで、芋が雨屋の縁の下から十分成長していないものも含めて大量に出てきた。村の者達は、どこの家ではどの位芋がとれるかを全てしっていたのである。
何処の家でも冬をこすことが出来るかどうか、ギリギリであり、二代続いて「楢山様に謝る」ことになった雨屋は、激しい憎しみの対象となった。その三日後、村中が騒がしくなり、裏山の墓場ではカラスが騒ぎだし、そして翌日雨屋の人間は全員居なくなったことが知れ渡った。それ以降、雨屋のことを口にしないという村中の申し合わせが出来上がった。
おりんにとって楢山まいりは人生最後の目標だった。その日のことばかりを胸に描いていた。山に行く前日の行事の準備をしてきたのである。誰も知らない間に、白萩様(白米)も、椎茸も、岩魚の干物も、家中が腹一杯食べられ、村の人に出す濁酒も十分な様に準備をしてきた。
正月の4日前おりんは、明日楢山まいりをする決心をした。辰平に、山に行ったことのある村の人たちに今晩くる様に声をかけて来いと告げた。渋る辰平に、言わなければ明日は自分1人で行くと告げた。その声には辰平を服従させる力強さをもっていた。
楢山参りは初冬の雪がつもらない時期が最も良いとされていた。出発の前日には過去に参った人たちを迎え、酒宴を開いて祝うのである。そこで、その客人が老人を連れて山に入る一家の主に、改めて楢山参りの掟などを話すのである。
一つ、お山に行ったら物を云わぬこと。
一つ、家を出る時には誰にも見られないこと。
一つ、山から帰る時には必ず後ろを振り向かぬこと。(勿論、帰るのは付添人だけである)
次の人は、楢山への道順を話す。「裏山の裾を廻って、三つ目の山を上れば池がある。四つ目の山をのぼり、谷を廻れば2里半、途中七曲がりの道があり、そこが七谷というところ。そこを越せば、楢山様のみちになる。」
この教示後は誰も物を云ってはならない。その後、消える様に皆去っていく。最後にリーダー格の人が、辰平を手で招いて戸外に連れ出し、小声で、「嫌ならお山までいかなくても、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」と、是も決まり通りに云って去った。
その夜の丑三つ時、外の方で誰かが泣いているのを聞いた。その声は隣家銭屋の“又やん”のもので、一年前に楢山参りに行くと思われていたが、どうやら今年参るらしい。銭屋の倅が現れ、辰平と鉢合わせになり、荒縄を食い切って逃げだしたことを告げた。
おりんは、楢山参りを嫌がる“又やん”を「馬鹿なやつだ」と思いながら、「山の神さんにも息子にも、生きているうちに縁が切れちゃあ、困るらに」と叱るように言い聞かせた。
次の日、渋る辰平を責め立てる様にせかして、背板に乗り楢山への途についた。裏山の裾を廻って柊の木の下を通ってからは楢山参り以外では入ってはならない領域である。楢山の頂上が見えてからは、そこに住む神の命令で歩いているのだと思って歩いていた。
頂上に近づくに従って、死骸とカラスが増えてくる。地を蹴って脅しても、カラスは憎らしいほどに落ち着いていた。死骸のない岩陰に来た時、おりんは辰平に足を動かすことで「ここで良い」と合図した。
おりんは、用意したムシロの上に立ち、じっと下を眺めていた。おりんは、手を延ばして辰平の手を握り、辰平を来た方向にむけた。辰平は身体中が熱くなり、脂汗でびっしょりだった。おりんは、辰平の手を固く握りしめ、背中をどんと押した。
辰平は後ろを見ないように歩みだした。10歩ばかり歩いて、おりんの乗っていない背板を天に突き出して、大粒の涙を落した。楢山を中程まで降りた時、雪が降ってくるのを見た。そして、ふだんおりんが、「わしが山に行く時には、きっと雪がふるぞ」と云った通りになった。楢山参りの時に雪が降るのは、その人は運が良いと云い伝えられている(注釈1)。
辰平は掟を破って、猛然と山を登りだした。おりんはムシロをあたままでかぶって念仏を唱えていた。髪にも膝にも雪が積もっていた。「おっかあ、雪が降って来たよう」と大きな声で云った。おりんは静かに手を出して、帰れと振った。
帰りの途中七谷まで来た時、銭屋のせがれが荒縄で罪人のように縛られた又やんを、深い地獄の谷に落そうとしているのをみた。縄の間から僅かに自由になる指で倅の襟をつかむがそれを払いのけようとして、危うくふたりとも谷に落ちかかった。倅が又やんの腹を蹴飛ばすと、ようやく鞠のように斜面を転がっていった。そして、谷底から竜巻の様に、カラスの大群が舞い上がって来た。
家に帰った時は暗くなっていた。末の子がおりんが居ないので、寂しがっているに違いない。「おばあ、いつ帰ってくる?」と聞かれたらどう答えようと、戸口で中をみた。しかし子供達は全て知っていて、おりんの居ない家に既に慣れていた。長男のけさ吉は昨夜おりんが丁寧に畳んでおいた綿入れを着ており、その嫁は昨日までおりんがしめていた帯を大きくなったお腹にまいていた。(注釈2)
粗筋の注釈:
(1)雪が降り積もれば、楢山の頂上近くへは近づけない。頂上について帰りに雪が降り出せば、カラスは来ないし早くあの世に旅立てるのである。
(2)辰平が帰って来たとき、お玉の姿が見えなかった。おそらく、どこかで泣いているのだろう。お玉は優しい人で、後妻として来た時から、おりんは前の嫁より良いと思っていた。けさ吉の性格はどうやら辰平ではなく、前の嫁に似ているようだ。
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