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2015年9月29日火曜日

公(おおやけ)という感覚がない中国

1)最近、中国の政治経済の今後を考えるネット番組を観た。その一つは河添恵子氏が中心に、「SEALDSらの運動の背後に中国が存在する」と指摘・議論をする番組であり、(A)https://www.youtube.com/watch?v=sn9fc3ZWiMA 一つは、SakurasoTVの3時間番組、「危ない中国の行方」と題する番組、 (B) https://www.youtube.com/watch?v=FbSpqD8iw9Q 最後に、現在富士通総研主席研究員の柯隆氏による日本記者クラブでの「どうなる中国経済」と題した講演である。(C) https://www.youtube.com/watch?v=lbSMgEU2pwA 

すべて今年9月に公表されたものである。何れも、中国の特徴として、公務員の汚職が文化として定着していることを指摘しており、それは河添氏が上記講演(A)で指摘した、「中国では現在もほとんど “公”という感覚がない」という言葉に集約されると思う。

上記の3番組は非常に広い範囲に亘る議論であるが、その中から一つだけこの「中国には公という感覚がない」をとりあげた。公とは何か、何の為にあるのか、その存立の条件はなにか、などについて素人ながら考えてみた。

2)河添氏は、“公(おおやけ)”を、“私(わたくし)”に対することばで、公共と同じ意味に使っている。公(おおやけ)は、社会全体の運営や発展を考える意識やその空間とでも言えるだろう。つまり、英語のプライベート(private)に対することばパブリックpublic (people in general; 人々一般)と同義だろう(補足1)。

公は大宅または大家と書き、朝廷や宮廷、そして国家が原義であり、公共という意味は後で生じた。公共というのはpublicの訳として明治時代に作られた和製漢語であるから、その概念は明治以前の我国にはなかったのである。公も、明治以降に公共の公の意味で用いられるようになった。英語に訳せばともにpublicである。現在の日本には公共や公は根付いているように見えるが、そうでない場面に幾度も出くわす。

公とよく似た言葉に“お上(おかみ)”がある。このことばのニュアンスは、民衆から離れて上にある国家組織を指し、前近代的国家ではこのお上が、社会の運営や基盤整備などの行政と外国との付き合いである外交など(場合によっては戦争)を行う(補足2)。

このように考えれば、中国では「おおやけ」という感覚がないのは当然だということになるだろう。なぜなら、お上(共産党幹部特に党主席)が国家の政治のすべて行うからである。若干中国には失礼な比喩であるが、日本でも江戸時代には、お上の支配階級と被支配階級の農工商を生業とする庶民がいた。被支配階級の人間は、公のことを考えることもその必要性もないが、支配階級が動員をかければ、作業や戦争にかり出されることになる。そのような作業をする際、駆り出された人には被害者意識的なものは残るが、決して「おおやけ」の感覚で参加したと思う人はいないだろう。

公あるいは公共というのは、その“お上”としての立場を民衆一般がとり、従って、同時に支配・被支配の関係がなくなった時に初めて生じる概念である。つまり、民主国家になって生じる市民の義務の在処である。河添恵子さんが「中国には公という感覚がない」とか、「彼らは日本人とは全く異なる人間である」というのは少々変であり、異なるのは日本と中国の歴史的段階であり、それに伴う文化の違いであると思う。

最近、習近平主席が汚職の撲滅運動を行っている。それは胡錦濤前主席の側近にまで及び、胡錦濤さんは自殺未遂まで起こしたと言われている(B)。この件、汚職撲滅運動を権力闘争に用いたのであり、公の感覚を中国に持ち込もうとしたわけではない。なぜなら、共産党一党独裁、しかも党主席が皇帝のように振る舞う体制には、公の感覚など育ち得ないからである。単に規則を厳しく適用することで、自分の地位を誇示安定させるのが目的で、丁度急に厳格に取り締まりをする交通安全運動のようなものである。終われば、運転する人のあたまから制限速度は消えているし、黄色信号は青信号となんら変わらない。

中国人で著名な評論家で富士通総研主席研究員の柯隆氏の日本記者クラブでの講演(C)で、氏は中国での汚職は経済活動の潤滑油的な役割もあると言っておられる(補足3)。権力闘争にその汚職撲滅を用いたのは、共産党幹部の組織において背後に層の厚い人脈を持たない周近平主席の戦略であると理解できるが、難しいのはそこから如何にして出るかの出口戦略であるという(補足4)。

あまりに徹底してしまうと、経済にマイナスとなるというのである。例えば、工事費の3割を中央政府が持ち、残りを地方政府が持つ形で公共工事の金を地方政府に交付しても、なかなか工事が進まない。監視の厳しい情況下では、役人に旨味がないため積極的に動かないのだという。

柯隆氏が経済活動の潤滑油的な面もあるという同じことを、河添氏はそれを腐りきっていると形容するのである。二人の物差しの違いは、“公”という感覚のない文化への理解度だと思う。

工業製品にISO規格があることで象徴される様に、グローバル社会では、感覚や物差しの共通化が必要であることはいうまでもない。 しかし、グローバル社会に接したときに、ことなる文化の国が順応するには一定の時間がかかるのは当然であるだろう。それは先進国側の国も、同様に考えるべきことである。日本の中国との急激な経済交流は、河添氏の指摘とおり、そして、昨今の中国と日本の関係を考えると、更に、中国経済の現状を考えると拙速に過ぎたと思う。孫氏の兵法に「拙速は巧遅に勝る」というのがあるそうだが。。。

補足:

1) peopleはbody of persons comprising a communityと語源辞書には書かれており、共同体を構成する人々の意味である。従って、public は共同体に属する人々一般に関係するという意味である。

2) 広辞苑にあるのは、①天皇、朝廷、②政府、官庁、③貴族、④主君、などの意味がある。①と②は、おおやけと同じ意味である。ここでは、同じ意味の二つのことばの用途が分離したと考え、そのような意味に用いた。

3) ワイルドスワンズに書かれている。公務員になって、そのコネで一族に貢献しないのなら、何の為になったのかわからないそうである。

4) 米国をはじめ世界中で行われている大規模な金融緩和も出口戦略が非常に難しい。今回の話題と全く関係がないイエレン氏のことを思い出した。何れにしても出口戦略に頭を悩ますようなことは、できるだけやらない方が良いと思う。

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