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2015年9月13日日曜日

言葉と定義:国際社会における誤解とその利用

1)言葉は、多くの単語が体系をなして一つの世界をなしている。つまり、一つの単語は、他の単語を用いて定義されて、全体としては一つの閉じた世界を作っているのである。その言葉を用いるものは、自分の頭の中にその言葉が作っている世界を持っている。

例えば動物という言葉(単語)は、広辞苑第二版によると「植物と共に生物を構成する二大区分の一」と定義される。動物は単に動く物ではなく(自動車は動物に入らない)、植物と生物という言葉を用いて定義されるのである。更に、「構成する」とか「区分」などの言葉も同様に他の言葉で定義される。このような定義を繰り返せば、一つの閉じた”言語空間”、つまり、一つの世界をつくる。

対話とは、二人の人間が同じ”言葉の世界”で、言葉の伝達という形で行う意志の伝達である。有効(円滑)な対話には、相手の確認、各自が持つ言葉の世界の同一性(近似性)の確認、そして対話の“前提”の確認が、夫々必要である。会談は、言葉の世界における互いの差の確認、立場の差の確認、それらの調整、などにほとんどの時間を費やす(補足1)。

誤解は、上記確認が間違ってなされる場合に生じる。上記確認は完全に独立していないので、どの確認に間違いがあり話が通じなかったと明確に示せない場合も多い。よくあるケースは、相手の確認と共通の前提の確立をいいかげんにしてしまった場合の誤解である。例えば、自分が配偶者と話をしているつもりでも、配偶者は話の内容によっては、一人の独立した人間としての立場をとる(配偶者であるという前提をとらない)場合もある。其の場合は、話は食い違ってくるだろう。

更に厄介なのは、言葉の世界に違いがある場合である。ここでは悪意(これも定義が必要だが)を片方が持つ場合は想定していないし、外国語を話す人と互いに母国語で話す場合、理想的な通訳の存在を前提としている。それでも言葉の世界に違いがある場合、話が通じない。誤解の解消は、非常に困難な場合が多い。

2)言葉の世界の違いは、単語の定義から存在する。例えば、“国家”という言葉さえ、人により定義が異なる。金曜日(2015/9/11)のBSフジのプライムニュースに出席したホン・ヒョン(洪熒)氏は、中国要人が持っている可能性が高い中華思想には、国境という概念が存在しないと指摘した。つまり、中国人の頭の中の“中国”は、明確な国境を想定しておらず、従って近代国家を意味していないということである。

そして、中国の人々は、国籍と関係なく中国出身の人はすべて“中国人”と理解しているようである。移民先に中華街を作って、そこをまるで中国の飛び地と考えているかもしれない。以前、張景子さん(出自は、朝鮮系中国人)が日本国籍をとった理由を問われて、「その方が便利だったから」(補足2)と話していたのを思い出す。国籍という言葉の定義は、中国人と日本人では異なることを示している。

United Nationsを国際連合と訳したため、日本と諸外国とで国連に対する定義が相当異なるらしい。その誤解があるため、日本が世界第二の国連拠出金を負担しても、国連が反日姿勢を明確にする場合がある。先日中国が開催した抗日勝利70周年記念式典とそこでの軍事パレードに、潘基文国連事務総長が出席した。それに対して、菅官房長官が懸念を示した件である。http://www.sankei.com/politics/news/150907/plt1509070033-n1.html

国連トップが、一方の国が他の国との戦争に勝利したことを記念する軍事パレードに参加したことに対して、「国連は加盟国間の問題については中立であるべきだ」と菅官房長官が非難したのだが、それに対して、潘基文氏は「中立ではなく、正義の立場から参加した」と反論した。

これは、過去の既に講和条約などで清算した関係であっても、そしてまた両国が同じ国連加盟国であっても、”正義の中国と邪悪な日本”という過去の構図は現在も生きていると、国連事務総長が決めつけたことを意味する。更に、抗日戦争に勝利したのは、中華民国ではなく、毛沢東率いる中華人民共和国であるという主張を、国連事務総長が認めたことになる。

仮に中国の周近平主席が、抗日戦争に勝利したのは中国の人民であることには変わらないと主張するのなら、それは、戦った相手は日本国民ということを意味する。国家間の戦争という近代の考え方ではなく、この”民族と民族の戦い”という考え方を採用すると、講和は永遠にあり得ないことになりかねない。日中平和友好条約締結時に、中国国民も日本国民も、軍国主義者の率いた日本帝国の被害者であるとの中国要人の声明は、嘘だったということになる。

兎に角、潘基文国連事務総長の今回の行動に対して明確に抗議し、場合によっては国連への拠出金を半減する程度のことはすべきである(補足3)。それにしても何故、菅官房長官は懸念を表明するという表現を用いるのか? 英語に訳すると関心がある(serious concern)程度の意味になり、あまり非難したことにならないと思う。

3)日本人が自衛隊という言葉を話したなら、英語ならself defense forceと訳される。それを、再度日本語に翻訳すると自衛軍となる。このように翻訳を往復で行って意味が異なる場合、両者の定義はことなる。この単語の定義をこのままにしていては、話が通じない(補足4)。

自衛隊という言葉は、新しく作られて言葉であり、それを作った側に緊急避難的な意図があったと思う。つまり、現行憲法下で軍隊を持つ必要があったということである。憲法を変えられなかったのは、その言葉には特別の言霊(補足5)が宿っていて、改正不可能になっていたからである。

緊急避難的な言葉は、短期間で廃止しなければならないが、戦後長期政権を担った自民党の総理大臣がすべて政治屋だったため(つまり命をかける程の決意がなかったため)、現在も放置されたままである。その結果、自衛隊という言葉が根付いてしまい、国家の防衛を議論する際にも、自衛隊員の身の安全が事細かに議論されることになる(補足6)。

日本人の言葉は、時代により状況により大きく変化する。例えば、命という言葉の重みは昭和初期に一銭五厘の紙程度に軽くなり、戦後無限大に発散したのち、現在も地球より重い。地球より重い命が、介護施設で、深夜の商店街で、祭りの帰りの夜道で、失われているのにも拘らずである。もし、命が地球より重いのなら、地球など瞬間的に蒸発してなくなっているはずである。つまり、“命は地球より重い”という文章がそのまま受け入れられるほど、”命”に宿っている言霊は強く重いということである(補足7)。

その日本で病的に高まっている命という言葉の重さを利用して、民主党などは安保法制などにおいて反日姿勢をとっている。上記中国的な言葉の世界を採用すれば、彼らの多くは本当は日本人ではなく、他国の利益を代表しているのではないかと思う。

補足:

1) このような会話のプロセスは、プログラムを組んで電子計算機で計算するプロセスに似ている。実体験として、電子計算機は非常に頑固な対話の相手のように感じた。ほとんどの時間はプログラムミスの修正(つまり、こちらが言葉や立場を相手に合わす)に費やされた。

2) 日本国のパスポートの方が諸外国に自由に出入りできて便利だと言っておられたと記憶する。

3)  潘基文氏が、自分が国連事務総長なのか韓国代表なのか自分でも立場を特定できていないのであれば、国連が今回の発言に対してある程度の措置をとるべきである。

4) 日本の最高裁判所の判事や政府要人と米国人とは、自衛隊と憲法の関係についての話は通じない。憲法9条第2項は、一切の戦力保持を禁止しているからである。

5) 憲法改正する日本の動きに対して、諸外国は歴史修正主義の非難を浴びせるだろう。執拗な隣国や諸外国は、日本から憲法を変える自由さえ奪おうとしている。また、国民もそれらの国の意図に賛成している人たちのプロパガンダにより、重い言霊を感じる様になってしまった。言霊=>沈黙の文化(2)参照。

6) 日本で命の安全な職業としてランキングをとれば、自衛隊員はコンビニ店員、警察官、更には、タクシー運転手などよりも遥かに安全な職業だろう。多くの国際的な企業の職員は、例えばアルジェリア人質事件に巻き込まれた日揮の職員の例にある様に、自衛隊員よりも危険な職業かもしれない。

7)  ”白髪千丈”の様に、日本も中国も言葉が大げさというか、いい加減に用いらる。

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