朝食のときテレビをつけると、各局ワイドショーを放送していた。その中身がすさまじい。 ある局で、米国で一歳のこどもがオーブンで焼かれて死亡したというニュースを紹介していた。徐にチャンネルを変えるとそこは、局部を切られた弁護士に関する裁判のニュースであった。そんなことを詳細に紹介して何になると思いながらテレビを切り、食事を終えてパソコンに向かった。
テレビ局特に民放は、視聴率を上げなければスポンサー契約が上手く行かない。従って各テレビ局は、この経営上の問題と放送法一条「放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする」とのバランスをどう取るかという問題の合計点で、最高点を目指すだろう。
監督官庁である総務省が黙認すれば、一般視聴者の悪趣味に沿う放送が多くなり、上記のような”社会のゴミ”を放送する。視聴率が上がる理由は、画面の中の世界と心地よい居間との落差を実感させ、視聴者に刹那的満足感を与えるからである。比喩的にも、人間は高いところが好きである。より正確に言えば、自分より低いところを見るのが好きなのである(補足1)。
政府官僚機構は賢い庶民を欲せず、一般に愚民化政策をとる。従って、社会が乱れないのなら、大衆一般には多少悪趣味のテレビを見て愚民階級に安住してもらう方が良い。しかし、すべての国民が愚民であれば、自分たちが栄養をとる培地としての国家が崩壊する。それは、細菌と宿主のパラドックスの関係である(補足2)。
もちろん、社会のゴミを放送することには、“このようなゴミが存在するということ”を周知する意味はある。そして、そのようなゴミにならない様に、心を引き締めることにも役立つだろうから、利用の仕方に注意するべきという趣旨でこの文章を書いている。
一方、放送するマスコミ側には、”ゴミ漁り”をする場合にも、一定の配慮が必要である。つまり、ゴミを掻き出す際にあえて悪臭を出すやり方はやめてもらいたい、そして、名古屋のゴミ屋敷の主人ではないが、本当にゴミなのか、かなりの価値がある資源なのかというフィルターを用いてほしいのである。
例えば、あの涙の会見を行った野々村議員のみっともない画面が、議員の公判が始まるというニュースとともに放送されている。しかし彼がしたことは、規模の大小はあるだろうが、おそらく普通に全国の県会議員たちが行っていることだろう。裁判を淡々と行い、処罰を決めれば良いことである。彼にも生きる権利があり、大切な家庭があるだろう。今後の彼の生活にまで干渉するような報道は犯罪的であると思う。
似たような報道が、理研の小保方晴子氏の報道である。彼女の犯罪も悪質ではあるが、当初の報道後は、当事者である大学や裁判になっておれば裁判所が処理をすれば十分である。悪戯に、彼女の今後の人生を弄ぶような報道も犯罪的報道であると思う。
補足:
1) 鳥や狩猟動物は当然高いところを好むだろう。それは獲物を狙うのに適しているからである。しかし、人間は猿の仲間であるから、狩猟動物ではない。それでも、高いところを好むのは、社会的動物だからだろう。つまり、演壇(大衆の)上に立ちたいという欲望である。
2) この関係において、細菌と揶揄された側が、国家の骨格は我々だという可能性が高い。従って、注意して用いるべき比喩である。
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