表題の本は、平成に入ってから比較的若い日本の近現代史専門の方により書かれた、昭和天皇と戦争の関わりについて論じた本である。テーマの中心となるのは、大戦後の極東国際軍事裁判である。この東京裁判が、天皇の戦争責任を避けるという方針のもとに行われた日米合作の裁判であったと説得力をもって説明した本であると思う。覚書としてその内容の概略に自分の考えなどを加えてここに記す。
1)満州事変から太平洋戦争の終わりまでを15年戦争と呼ぶが、その原因としてよく言われるのが、軍部特に陸軍の暴走である。実際、A級戦犯として裁かれた28名のうち、陸軍関係者が半数以上の15名(海軍関係者3名)を占める。(補足1)日本国を破局に陥れたのは、軍部と一部の国家主義者の責任であると、日米開戦を決める御前会議の2回目まで総理大臣であった近衛文麿はマッカーサー元帥に告げている。
戦犯として逮捕される直前に近衛は自殺したが、手記が朝日新聞に公開された。そこには、天皇の決断があれば日米開戦は回避されたとする記述があった。近衛がマッカーサーにした上記話は、近衛の本音だろうが、責任逃れの意図もあっただろう(補足2)。一方、高松宮や三笠宮など昭和天皇の弟二人も天皇は退位すべきとの意見を持っていた(補足3)。高松宮と親交のあった加瀬英明が「あの戦争は陛下がお停めになろうとすれば、お停めになれた筈だ」と高松宮から聞いたという。
一方、マッカーサーの下で日本との交渉にあたったボナ・フェラーズ准将は、米内光政にGHQの方針として「戦争責任のすべてを東条に押し付けることで、天皇の免責を計るように日本側の論証に期待する」語った。したがって、「天皇は日米開戦を止めようと思えば、止められた」という発言や、「天皇は退位すべき」という発言は、GHQの方針としても好ましくなかったのである。
2)国体護持(天皇制の継続)が終戦時に最もこだわったことである。そして実際、ハルノートにその条件をつけて受諾しようとした。
ナチスドイツを裁いたニュルベルク裁判の場合、連合国米英仏ソの4大国間の連携がとられたが、東京裁判のときにはその進行と冷戦が平行したので、裁判の中心となった米国の対日宥和政策が裁判に多大の影響を及ぼすことになった。裁判長と首席検察官はマッカーサーの権限で指名されるなど、米国の国益を優先して裁判が進められた。その結果、当初第二第三の継続裁判で起訴を前提に拘束されていたA級戦犯容疑者が次々と釈放された。
また、連合軍の本土侵攻前に終戦となったので、裁判までの間に書類はほとんど焼却処分され、裁判は日本側の証言に頼ったことが、ニュルンベルク裁判と大きくことなる。米内光政からGHQの方針を聞いた宮中グループは、その対策の一環としてまとめ上げたのが「昭和天皇独白録」である。宮内省宗秩寮総裁の松平康昌、宮内大臣松平慶民、宮内省内記部長稲田周一、宮内省御用係の寺崎英成、侍従次長の木下道雄の5人が聞き取りに当たった。
明治憲法には、「天皇は国の元首にして、統治権を総攬しこの憲法の条規により之を行う」とある。そして、政治の実務は帝国議会、内閣、裁判所が行うことを定めている。行政では、憲法55条に「国務大臣は天皇を補弼し、その責に任ず」とあり、その責任は国務大臣にあると書かれている。しかし軍事については、第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」とあり、軍令のトップには天皇が存在していたのである。
しかし、絞首刑の判決を受けた陸軍軍務局長の武藤章中将は、「日本歴史は公卿の罪悪を掩蔽して、武家の罪のみを挙示する傾きがある。大東亜戦争の責任も軍人のみが負うことになった。武人、文に疎くして歴史を書かず、日本の歴史は大抵公卿もしくはこれに類する徒が書いたのだから、はなはだしく歪曲したものと見なければならぬ」と日記に書いた。
この本を読み終わり、A級戦犯とされた人たちをも靖国に合祀する理由がわかったような気がする。それは、昭和天皇の参拝を取りやめることになった理由として引き合いに出される「富田メモ」の信憑性が疑問だということにもつながる。また、以前に櫻井よしこさんのA級戦犯合祀は当然であるという発言に反対する文章を書いたが、櫻井よしこさんは上記のような背景をご存知で、武藤中将の意見などと同様の考えをお持ちだったのかもしれない。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html
補足:
1)終戦時陸軍大臣の阿南惟幾と、東條英機の後任として陸軍大臣になった杉山元も、生存しておれば絞首刑になったと思う。開戦時の海軍大臣の嶋田繁太郎は禁錮であり、軍令部総長の永野修身は公判中に病没した。もう一人の軍務局長の海軍中将岡敬純は日米開戦を強く主張した人物とされたが、禁錮であった。終戦時に海軍大臣を務めた米内光政は戦犯にはならなかった。
2)日米開戦を避けるべく駐米野村大使とハル国務長官のまとめた日米了解案を受けいれるという当時首相の近衛文麿が決断すれば、日米戦争は避けられた可能性があったと、半藤一利著「昭和史」第11章には書かれている。しかし、それはあくまで天皇に決断する力がなかったとする前提があってこそ成り立つ論理である。戦犯として逮捕される直前に近衛は自殺したが、手記が朝日新聞に公開された。そこには、天皇の決断があれば日米開戦は回避されたとする記述があった。近衛がマッカーサーにした上記話は、近衛の本音だろうが、責任逃れの意図もあっただろう。
3)三笠宮の発言は1946年2月27日の枢密院本会議においてなされた。しかし敗戦後の会議の記録は未公開である。
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