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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2016年6月30日木曜日

東京都知事選に政府与党は干渉すべきでない

1)東京都知事の選挙に自民党衆議院議員の小池百合子氏が立候補を表明した。しかし、自民党東京都連の石原伸晃氏は、小池氏からの事前に相談がなかったとして、小池氏を推薦しない方針らしい。その代わり、固辞している元総務庁事務次官の桜井氏を推薦したいようだ。

菅官房長官の説得では辞退の態度を改めないので、安倍総理が説得するようである。(補足1)都知事を都民が選ぶ際に、なぜ内閣(一自民党代議士としての説得だという言い訳は無用だ)がこのような干渉をするのか、理解に苦しむ。国政が地方行政に強く関わるのなら、明治時代の県令を復活させるようなものであり、地方分権とは逆方向である。

また、固辞している人を、無理やり立候補させるというのは如何なものか。学校の教科書にも書いてあると思うが、”選挙は自分で立候補を決めた候補者のなかから、選挙民が投票で選ぶ”のだ。日曜日の時事放談でも、武村正義氏が他薦が良いという馬鹿なことを言っていた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42859296.html 

この日本独特の選挙のあり方では、優秀な人材が政治の世界には集まらないだろう。幹部連中として第1級の人物が揃っているのならまだしも(補足2)、その点あやしげでも膝を屈しお伺いを立てて、推薦してもらわなければならないのだから。自分で活躍できると自信を示した人よりも、元々やりたくない人から選ぶなんて、どう考えても馬鹿げている。幹部の方々は、そんな理屈もわからない人たちなのだろう。

また、昨日まで政府の事務官であった人間を送り込めば、使いやすい都知事が誕生すると考えたのであれば、それも「都民が選ぶ都民のための知事」という原則に反している。桜井氏の子息が芸能界で活躍しているということで、知名度もあり選挙に有利だという理由も更に馬鹿げている。

2)都知事選では最後に立候補した方が統計上は有利らしい。それについて、「後出しジャンケン」という言葉を用いて、”政治評論家”がコメントもなく、且つ、恥ずかしげもなくテレビ番組で発言していた。

この点について、小池氏は「都知事選というのは、最後の後出しじゃんけんで勝つと言われているんです。私はね、そうやって後出しで勝とうとかね、そういうのをやめて、早く政策論争を都民の前でやった方がいいと思っているんです」と述べたが、全くその通りである。 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20160630-00000107-fnn-pol

私は有権者の一人として、小池氏をあまり高く評価してこなかった。しかし、今回の立候補表明は後出しジャンケンが有利だという世間の風評や、自民党幹部連中が都知事選を自分たちの手の平の上で行わせようという思惑を蹴散らしたもので、潔いし逞しい。政府も地方分権が日本の政治の方向であると言ってきたのだから、知事の選任くらいは、内閣や重鎮と言われる訳のわからない人と関係のないところで行って欲しい。ヤクザの世界ではないのだから。

補足:

1)自民党内では、外堀が埋まっているので、桜井氏は説得に応じて立候補するだろうと考えているという。いったい選挙を何とおもっているのか? 説明してみろといいたい。
2)この他薦が良いという考えが日本文化の一つとして政治の世界にも浸透している。そしてこれが、本当は非常に深刻な問題なのである。英語の名言に以下のようなのがある。 First-rate people hire first-rate people; second-rate people hire third-rate people. http://www.brainyquote.com/quotes/quotes/l/leorosten143374.html
「第1級の人間は第1級の人間を選ぶ、第2級の人間は3級の人間を選ぶ。」つまり、他薦では、その組織が次第に3級の人材で埋まることになるのだ。これは大学教授の人事についても言える。多くは公募という形をとるが、担当講座教授の弟子が後任になることが多い。その結果、日本では2-3の有名大のほかは二流以下の大学であり、一流大学も世界では非常に低く評価されている。その点、米国の大学とは比較にならない。

2016年6月28日火曜日

反グローバリズムの動きをする人たちをポピュリズムという言葉で安易に批判すべきでない

1)今朝の読売新聞の一面に「はびこるポピュリズム(補足1)」というコラムが掲載されている。その記事には、“英国での国民投票の結果は、ヨーロッパ各地で広がりつつある極右政党の勢力拡大の流れに拍車をかけるだろう"と書かれている。そのコラムニストは、“彼らのスローガンは、「反エリート」「反移民」「反EU」である。社会の特定の階層や組織を敵視し、響きの良い言葉で現状に不満を持つ国民の共感を集める、ポピュリズム「大衆迎合主義」に他ならない。”と書く。

更に、“その背景にグローバル化があり、その流れに乗った勝ち組と乗り遅れた負け組の差が鮮明になっている。OECDの2015年の調査によると、先進国で所得が多い上位10%と下位10%の所得格差は10倍となり、1980年代の7倍から拡大したという。しかし、ポピュリズム勢力が、暮らし改善の具体策について支持を得ているわけではない”と記している。

そして、フランス国際関係戦略研究所のカミュ研究員の言葉を引用して、“「感情の民主主義、感情の独裁が出現する恐れがある」”と結んでいる。

2)似たような記述は、多くのサイトに書かれている。しかし何か一方的な批判の様な気がするので、敢えて「むしろ感情の民主主義に走っているのは、EU離脱派を批判している側かもしれない」という見方を書いてみる。(補足2)

上記コラムニストの、「EU離脱派や反エリート支配を主張する彼らは、社会の特定の階層や組織を敵視し、響きの良い言葉で、現状に不満を持つ国民の共感を集める。ポピュリスト「大衆迎合主義者」に他ならない」という批判は妥当だろうか。

先進諸国は普通、民主主義国家と見なされるが、異なる幾つかの政治的経済的階層が存在することは事実である。また、いろんな組織がそれら諸階層の利益を追求すべく存在するのも事実である。従って、非エリート層側に立つ政治家が、エリート層という特定の層と、その利益を追求する組織としてEUがあると考えるのなら、そのEUという特定の組織を批判して、大衆の共感を集めることが何故批判されなければならないのか?

大衆の感情に訴える演説などは、日本の国会議員の選挙などでも普通のことである。下層民は、移民が多くなれば仕事を奪われるので、移民を受け入れるべきでないと考えるだろう。従って、反移民の演説も何の不思議もない。同様に、EUから脱退すべきであるという考えは、移民との関連で出てきて当然だろう。

「ポピュリズムは批判されるべき」というエリート層に響きの良い言葉で、(下層民の団結を恐れる)エリート層の共感を集めるのは、グローバリストやそれを支持するこのコラムニストの方ではないのか?

もちろん、EU離脱派が無責任な人気取りだけの言葉で大衆の票を得て、結局国家の為にも大衆のためにならない結果に終わることになれば(そのような結果に終わることが明白なことなら)、批判されるべきである。しかし、その場合でも「EU離脱派はポピュリストである」という感情的な反論ではなく、論理的具体的に非難すべきである。

つまり、反エリート、反移民、EU脱退が、結局大衆(ピープル)のためにならないことを論理的に説明しなければならない。それが無い以上、EU離脱のチャンスを潰すために、EU脱退後の長期の不景気という無責任な予測で、大衆の恐怖を煽っているという批判もあり得るのだ。

実際、離脱派のボリス・ジョンソン氏はかなり深くこの問題を分析して、英国に勝算ありと思っていたのではないかと言う人もいる。http://diamond.jp/articles/-/93364?page=1 上記記事では、EUに代わって巨大な英連邦経済圏をつくり、その中の中心になって経済及び政治運営をするというシナリオもあり得ると書いている。

EUが弱体化して、日本や米国などがその余波を受ける可能性が高いので、世界に混乱を持ち込んで欲しく無い。しかし、それは英国の直接的事情ではない。もちろん、その影響が反射して英国にも深刻な問題を起こす可能性はある。しかし、もっと長期的視野で英国の関係者がこの問題を考えているとしたら、他の国ができるのは英国と英国のEU離脱派の批判ではなく、如何に自国の被害を最小限にするかということだろう。

補足:
1)ポピュリズム(populism)はpeople (ラテン語populus)とismからなる。
2)私は、昨日のブログにも書いたように、EU離脱の国民投票を公約にして選挙に臨んだキャメロン党首を批判する側である。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42857181.html このような文章を書くのは、批判も正鵠を得たものでなければ、正しく作用しないと思うからである。。

2016年6月27日月曜日

現代の皇帝は会社の創業者である: 政界の人材不足

1)人間は利己的且つ社会的動物である。天下を取って、多勢の人間を支配下に置き、宮殿にすみ快楽のままに生きるのが、本音の目標である。豊臣秀吉や徳川家康の立派な宮城や離宮、そして多勢の女官を置いた後宮などを見れば明らかである。ごく最近では、舛添都知事が遥かに小さいスケールだがそれを実行した。都庁は宮城であり、湯河原の別荘は離宮であった。多勢を従えてのリオデジャネイロへの行列も、結局”殿”が失脚すれば中止せざるを得ない。

その様な目標設定は、道徳や宗教などでごまかされない、並より上レベルの知性を持った者の多くのライフスタイル設定である(補足1)。その意味で、舛添氏はそのレベルの知性を証明した。大統領や首相の地位は、世界各国での”立身出世”の頂点であったが、それが今や多くの先進国では頂点ではなくなったと言っていい。飛び抜けた知性と勇気を持った人間の目指す目標は、グーグルやマイクロソフトレベルの会社の創業者の椅子になったからである。暗殺の危険に身を晒し、方々で味噌糞議論の対象にされ、倒産間際の中小企業社長の給与と変わらないレベルの待遇でもなお、世界の平和という目標と世界的知性が同居するとは思えない。

地位と名誉と待遇は、強い相関を持って然るべきであるし、ほとんどの人はそう理解する。

2)先週、EU離脱に関する国民投票の実施を決めた英国のキャメロンとかいう首相の無能さに呆れた。そして、もっとデカイ国の大統領選挙の様子などをみると、これらの国の政治は地球全体に影響を及ぼす筈だが、それよりかなり小さい世界での出来事のように思える。日本の野党党首の支離滅裂な言葉を聞くごとに、国家(政治)のトップを争う人間が小さいのは、日本特有の現象だと思って嘆いていたが、実際はそうではないようだ。名実ともにその国のトップに位置するのは、ロシアや中国だけではないのか。(中国でも政治家の地位低下は、時間の問題かもしれない。)

先週の実業界での大きなニュースはソフトバンク副社長だったニケシュ・アローラ氏の退任だった。ソフトバンクに在籍したのは一年間余りで、手にした報酬は200億円以上だろう。グーグルで2012年に得た報酬の50億円を遥かに超える高給で迎えたのだが、孫正義氏の経営方針とは合わなかったようだ。その孫氏の資産は1兆円を超える。米国では、ビルゲイツ氏のように8兆円を超える資産を持つ人もいる。彼らは終身膨大な資産と世界的名誉を保つだろう。

ニケシュ・アローラ氏の高いサラリーマン役員としての給与も、米国では棒を振り回して毎年数億円の給与を得る人間がたくさんいるのだから、びっくりするには当たらないだろう。孫会長の給与は数億円レベルだろうが、配当利回り最低のソフトバンクの株配当だけでも、毎年90億円以上の収入はあるのだから。(補足2)

現代では、米国大統領と雖も8年間過ぎれば、そのような資産も名誉もない人がほとんどだろう。これから青年期に入る優秀な子供が、どちらになりたいか? 日本の元総理のみっともない姿を見なくても、答えは明白だろう。

補足:
1)この文章に異論がある人が非常に多いだろう。「なんというコセコセした理屈だろうか」そう思う人がほとんどだろう。それは自分に無関係だから、カッコイイ考え方に洗脳されているだけだと思う。
「国民の将来を犠牲にした政界の権力闘争は何故存在するのか?」を考えて欲しい。例えば、英国保守党のボリスジョンソン氏が何故EU離脱派を支持したのか?移民受け入れに賛成だったはずだ。http://bylines.news.yahoo.co.jp/bradymikako/20151019-00050591/ 結局、自分が首相になる最後のチャンスを掴みたかったからだろう。政治家のほとんどが国家の為と自分の名誉とが衝突した場合、国家の為のストーリーを自分の名誉に合う形に歪めて主張するのだ。
2)「実力で稼いでいるのだ」という人も多いだろう。しかしその舞台は、この地球という奇跡の星の上に、過去数百億人以上の人間によって築かれた現代文明の上に存在し、その事業は、現代生きている人間数十億人を背景にして存在する。演劇の興行収入全てを取る権利が俳優に無いように、創業者と雖も、その企業の収益を全て自分のものとすることは本来おかしい。

2016年6月26日日曜日

今朝の時事放談のレビュー

英国の国民投票の結果が出たので、今日は久しぶりに時事放談での議論を聞いた。ゲストは、武村正義氏と丹羽宇一郎氏である。司会は御厨貴氏。英国のEU離脱の件、すでに二度ブログに書いた。大事なことを国会ではなく、国民に直接聞くという愚かなことをキャメロン首相(保守党党首)が行ったという結論は二つとも同じである。
(以下、放送での発言等は普通の表示で、私の考えはイタリックで表示した。)

1)英国の国民投票の結果について:
丹羽氏は「若手が残留で老年層が離脱という分裂があった」こと、そして、「二年間の間に形が決まるのだから、世紀末のように狼狽してはいけない」とそれぞれ指摘した。

この若手と老年層の分裂は深刻であり、livedoor blogにとりあげられていたので、ここに引用する。http://blogos.com/article/180956/ 学歴で分布をとると大学卒の人は大部分が離脱反対で、それ以外低学歴の人は離脱派が多い。しかし進学率が、年齢が低くなるに従って高くなれば、年齢依存の焼き直しの可能性がある。この補正がないので、この依存性が学歴によるのか年齢に依存する何によるのかについての解釈はすぐにはできない。

武村氏は、「世界中にグローバリズムに対する嫌気が世界を覆っている。強い中国、強いロシアという習近平やプーチンの姿勢もそれと共通している」と発言した。

しかし、この問題をこれだけで終わる氏の発言には全く面白みがない。グローバリズムは世界の趨勢であり、それは差し当たり評価すべきである。ただ、グローバリズムを急ぎすぎたことに問題があったのだ。EUについては、2004年に東欧圏を含む10ケ国を加入させるときどのような議論がなされたのか。そこにどこか他の国などの力が働いていたのではないのか、そこが問題の核心であるが、そのような議論は皆無だった。

丹羽氏、「貿易はゼロサムであり、英国とEU間の貿易が減れば、中国と英国の貿易が増えるのでは。IMFが、英国のGDPが5%減ると予測しているが、英国などの大人の国は、そのマイナスを補填する知恵を出すので、そのようにはならないだろう。イタリアでの離脱議論が強まるのが、いやな雲行きである」と発言。同時に、円高に対する議論では丹羽氏から、「ポンドの狼狽売りの所為で乱高下するが、落ち着いて対処すべき。(離脱後の条件決めは)二年間の話なのだから」という指摘があった。

これはその通りで、いろんな形での他国への波及が今後の大きな問題であると思う。二年間で話がつかなければ、話し合いは延長となり、おそらく5年くらいの長期の話になるのではないかという予測もある。

保守党のキャメロン首相の責任に関する言及が全くなかったのは不思議であった。民主主義が衆愚政治に堕落する危険性についても議論がなかった。この件、昨日午前中のウエークでもあまり議論がなかった。唯一、橋下五郎氏が国民投票を約束して選挙に勝った保守党の手法について、おかしいという指摘があったのみである。短い時間なので、難しいかもしれないが、本質的な議論がなされないのが、いつもこの番組をみて残念に思うことである。


2)参議院選:
話はすぐに、参議院選に移った。武村氏は、「争点は経済政策や年金医療であり、憲法改正などは3-4番目の問題だろうと指摘した。その経済政策について、安倍政権の消費税増税延期は約束違反である。さしたる理由もないのに、消費税増税の信を問うというのはおかしい」と発言。

丹羽は、「何を目標に選挙をやるのか焦点が定まらない」とまず発言した。そして、「消費税の増税延期を二回もやめるというのはおかしい」と発言。それを受けて武村氏は「さしたる理由がないのに消費税の増税を再度延期するのは、リーダーの信用問題に関わる。アベノミクスが失敗したというのなら、そういうべき。肝心な経済構造改革は全く進んでいない」と発言した。

世界経済が、大混乱になろうとしている今、このような呑気なことをいう人たちに政治経済を語る資格があるのだろうかと思った。安倍総理のリーマンショック級のことが起これば、消費税増税延期はあり得るという発言は、前後するが英国のEU離脱の国民投票の結果が出た今、裏書きされたと思う。

消費税増税がなくなれば、社会保障の財源に困るだろう。現在、国と地方を合わせた借金は1062兆円に上り、社会補償費は1兆円/年で増加する。それをどうするのかは確かに大問題である。


武村氏は「消費税2%で5兆円程度の税金が減る。それでも社会保障を予定通りやるというが、その理屈はおかしいと思う。財政再建がめちゃくちゃになる。プライマリーバランスなどできっこない。消費税を議論してほしい。」というが、不景気になり法人税や所得税などの減少分が5兆円を越えれば元も子もない。そんなこと御構い無しである。

丹羽氏も続いて、「社会保障と国債費、国防費で税収と同じ。34兆円ほど新しい借金をやらないといけない。消費税増税を中止しては、財政はもたない」と発言した。

これらの発言については、消費税増税の経済へのマイナス効果をすこしは考えているのだろうかと不思議に思う。安全資産として何かあれば円が買われる。それは、多少国家が借金を新たに増加しても、通貨の信用が保たれるということである。その原点を全くお二人は意識していない。

かなり多くの人がヘリコプターマネーを議論しているのに、この種のクラシックな意見だけを開陳するのでは、日曜の朝から番組を見る人に失礼ではないのか。


最後に舛添都知事の件、新知事にどのような人を期待するかなどの話があったが、ここでは省略しヤフーブログを引用する。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42859296.html

2016年6月25日土曜日

EUからの脱退を決めた英国の国民投票について:

今回の英国の国民投票について、キャメロン首相は愚かなことを(前回の選挙の際)公約したと既にブログに書いている。そもそも、一般国民が容易に判断できないことを国民投票にかけるのなら、間接民主制をとる意味がない。また、国民投票にかけた本人が、EUからの離脱は危険だと片方の選択を国民に強く勧めるのも、非常に不自然である。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42840422.html

国民投票を行うケースは、「両方とも同じ程度の危険性や損益が予想されるが、今後の国家の方向の選択は、国民の思想や嗜好によりきめるべきである」と言う様な場合に限られると思う。今回のように、EU離脱の方が残留する場合にくらべて、圧倒的に不利だと考えられる場合(政権を持つトップがEU残留を選択するように国民に訴えるような場合)、国民投票を行ってはならないと思う。

どうしてもEU離脱を望むと国民が考えるのなら、選挙による政権交代という手段が残されている。それが間接民主制の基本の筈だ。

キャメロン氏は首相辞任を表明したそうだが、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160624-00000107-jij-eurp 公約であった国民投票を行ったので辞任するというのは、非常に珍奇である。とにかく、前回選挙の際にEUからの離脱の是非を国民投票できめると公約をしたところから、今回の辞任表明までの論理的説明を英国民にすべきであると思う。(外からとやかく言う権利はないが)

国家の判断について、世界の国々に向けて説明する義務はない。しかし、世界はグローバル化し、国際的なつながりが密になっている現在、英国民への説明を世界に公開することが、紳士的な態度だと思う。

2016年6月23日木曜日

政治と歴史を峻別すべき:日本国は政治の場面では東京裁判史観を受け入れるべき

6月20日の記事は、要するに歴史家と歴史の評論家、政治家と政治評論家は別の分野をそれぞれ担当することを十分心得るべきだと言っているのである。政治家や政治評論家はあくまで現実主義を取らなくてはいけない。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42850363.html つまり、先の戦争の講和条約11条に東京裁判を受け入れると書いてあれば、受け入れなければならない。それは不合理であっても、約束だからである。締結国があらためようと言ってくれるのであれば、もちろんこの限りではないが。

嘗て日本の大学には政治学部はなかったし、おそらく今もないだろう。法学部政治学科が主な政治を論じる場である。法律学というロジックの世界と政治学というリアリズムの世界を一つの学部に入れていたということは、日本は政治学の意味がわかっていなかったということだと思う。これは深刻なことであると思う。(補足1)

日本のマスコミで政治評論家として出演する人も、歴史学と政治学を混同している人が多いと思う。欧米に歴史修正主義者と攻撃されるのは、愚かなことであると思う。日本の軍人や軍の幹部がA級戦犯として裁かれた東京裁判を受け入れたのなら、それを日本のために命を捧げた人として靖国神社に祭り、皇室や総理大臣がそこに参拝するのは、従って好ましくない。

東京裁判を否定するのなら、サンフランシスコ講和条約を破棄されても文句はいえない。有罪とされた人たちの赦免も、裁判に参加した政府の過半数の同意がなくては本来できない筈である。

ただし、後世の歴史家が東京裁判の不当性を主張することには、問題はないと思う。歴史学は学問であり、政治ではないからである。この歴史学と政治学との峻別を、日本政府は改めて全員で考えた方が良いと思う。

(以上、素人の意見なので、正しくなければ指摘し、根拠を示してください。)

補足:
1)東京大学法学部政治学科である。本来、東京大学政治学部があり、その中に政治学科、政治哲学科などがなくてはならない。

東山彰良著「流」(昨年度直木賞)の感想

昨年の直木賞受賞作である表題の小説を読んだ。芥川賞の火花を読んだ時の印象と似ているのだが、描かれた人と人の関係や人の行動は濃く且つ激しく、まるで絵の具を大量に使った油絵のような感じを受けた。流し読みのような読み方だったが一応全部読み、所々読み直してこの文章を書いた。

1)舞台は台湾であり、主人公、葉秋生一家は共産党軍に敗れた国民党とともに、大陸から1949年台湾に移住した。その時に一家を率いた主人公の祖父“葉尊麟”が、蒋介石の死去の年の1975年、何者かにより浴槽に沈められた形で殺された。祖父は主人公にとって大きな存在だったが、犯人の目星はつかず、警察は全くあてにならなかった。

当時17歳だった秋生は、その後の不良少年的な青年時代、陸軍の学校から軍隊生活、除隊後の会社員としての生活(日本と台湾を跨ぐ貿易関係の会社)、その間の二つの恋愛経験などを経て、25歳となる。話は主人公秋生の人生に関して進むが、その中心に祖父殺しの犯人探しが常に存在する。それは、中国本土から来た自分の正体(アイデンティティー)を探し出すことにもなるのである。

祖父の残した写真と、大陸から台湾に逃れる時の恩人(“馬大軍”)から一族に(李爺さん)に送られた写真、更に、ヤクザと友人“趙戦雄”との揉め事に秋生が巻き込まれた時に、救ってくれた義理の叔父“宇文”のその時の言葉や態度などから、その義理の叔父が祖父を殺したらしいと思われた。そこで、中国に出かけて馬大軍の助けで、祖父と 宇叔父の関係を確かめようとする。馬爺爺(馬爺さん)は、初対面ではあるが秋生を本当の孫のように大切にし、助けた(補足1)。

探し当てた義理の叔父である宇文は、共産側の住民数十名と供に秋生の祖父らに生き埋めにされた“王克強”の息子“王覚”だった。そして、王覚がその時の国民党側遊撃隊隊長“許二虎”一家を報復で皆殺しにした際、駆けつけた祖父から瓶の中に身を隠していた所を、許一家の長男と勘違いされて台湾に連れられ、葉家の養子となったのである。全てが明らかになったとき、村の勇者の“字叔父”は、村民を制止して当地では極悪人の孫となった秋生と二人だけで外を歩くことにする。

主人公秋生の足元には、宇叔父の頭を打ち砕くに十分な石ころもあった。しかし、対峙する二人の間の過去の話は、殺す方と殺される方に位置していることが、当事者の責任の外にあると感じられるものだった。祖父と字叔父ら、国民党と共産党両勢力の間の凄惨な出来事は、供に大きな歴史の流れ(渦)の中に飲み込まれたことの結果であった。

祖父が養子の字叔父に殺されるとき、その様な時が来ることを自覚していた様だ。何故なら、大きな抵抗の印が元々屈強なる祖父の体になかったからである。(補足2)同様に、字叔父も祖父と同じ結末を予想していた様だった。秋生はその壮絶な復讐の連鎖を終わるには、石を 宇叔父の頭に打ち落とすのが美しいと考えたが、その瞬間に字叔父の甥が祖父の持っていたピストルで秋生を撃った。字叔父は、秋生を守ろうと大声を出して止める一方、それを自分の行為として公安に届け、復讐の連鎖に終止符を打った。

2)冒頭に書いたように、濃い絵の具で書いた絵画のような感じを受けたのは、現在の中国と日本の間に存在する大きな文化の違いにも原因があるように思う。そして、その違いは、戦後の日本では生と死を近くに感じることがなくなったことに関係すると思う。それ故、最近の日本人は淡い水彩画のような人生を自然なものに感じるのだと思う(補足3)。

広大な大陸の中で生き残るには、強い味方を多く作ることが第一である。しかし、味方を定義するのは唯一敵であり、論理や真実は脇役に過ぎない。そして内戦時には、国民党か共産党かのどちらかの人脈に根を張ることが、生き残る手段であった。どちらでもよく、イデオロギーなど両軍につけられた小さなラベルにすぎなかったのだろう。

この横のネットワークは、縦のネットワークを用いてホッチキスで止めるようにつなぎ止めなければならない。祖父の死にこだわる主人公秋生の姿は、正にそれを証明していると思う。中国の言葉に、伝宗接代というのがある。それは代々家を継ぐことであり、それができないことは最大の親不孝となっている(補足4)。この人間関係は、生きる上で頼りになる一方、荒廃した世相の中では報復連鎖の原因ともなる。

主人公が軍の学校で、長期間登校しなかった罰則として独房に入れられ、看守から激しい虐待を受ける。それへの絶対服従を通して、自分の持っていた筈の自尊心が如何に軽いものだったか思い知るのである。個人の軽さと人間のネットワークの重みを教える話である。現代の日本人は、この考え方を完全に忘れているだろう(補足5)。

人間にとって今日1日の第一の目標は、生き残ることである。今の我々日本人は、それは既に約束されていると安易に仮定し、忘れがちである。しかし、安全に寄与しているらしい壁は視界を遮る形で存在する様だが、死は、本当はすぐ近くに存在するかもしれないのである。その壁は、強い経済や国際協調かもしれないし、進んだ医療や日米安保条約かもしれない。しかし、それらは看守からのいじめで初めて思い知る軽い自尊心と同じく、軽く薄い壁であり、葉一家を守る“お狐様”よりも当てにならないかもしれない(補足6)。

自分に対する誇りや将来への夢、家族の健康に家庭の幸せ、美しい芸術に楽しい休日。それらが陽なら、背中合わせに存在する陰を全く意識しないものに、それらを受ける資格はないと思う。この本は、いろんなことを我々日本人に教えてくれるのではないだろうか。全体的に非常に刺激的で深い内容をもった優れた小説だと思った。

補足:

1)この濃い人間関係が、本小説の背景として存在する。
2)この綿密な葉一家を皆殺しにするという恐ろしい計画が頓挫したのは、養父(主人公の祖父)が王一家を殺したことは私憤によるのではなく、歴史の所為だと知ったからである。養父はそれを悔いており、王家の息子と承知して字叔父を育てたらしいことを、養父が大事に保管していた王一家の写真を見て知ったのである。
なお、東山彰良の「流」の書評として例えば以下のサイトがある: http://h-idayu.hateblo.jp/entry/book-review-higasiyama-akira-ryu
3)昨今の健康ブームは、死が遠くに存在することを示している。死を日常的に背中に感じるとき、人は健康食品など考えない。
4)王覚が20年以上かけて主人公の祖父殺害を実行した理由は、どうしても生きて中国に帰り、王家を再興しなければならないからであった。王覚は、「不孝有三、無後為大」(不孝に三つあり、後取りのないのが最大の不孝である)であり、上記のように中国人にとって傳宗接代(代々血統を継ぐ)は何よりも大事なのであると説明した。
 この鍵となる考えは、それほどのものなのか、そして現在の中国に生きているのかがこの小説の評価には重要だと思う。それは、中国へ取材に行かなければわからないだろう。これは、この小説に若干の疑問をもったポイントでもある。
5)自分の命を犠牲にしてまで守るべき国家があるのか? もし、ある国ではこの考えが全く意味なく、他の国で重要な意味を持つのなら、前者の国も民族も自然に滅びるだろう。日本人はこの考えを再度考えるべきであると思う。
6)お狐様の信仰、友人が宝くじを当てたこと、幽霊との遭遇、コックリさんでの占いなどが、この小説で辻褄合わせのためか使われている。あまり多くこの種の技を消極的な理由で用いるのは良くないと思う。もちろん、一定の蓋然性を持つのであるのなら文句はないが。

2016年6月20日月曜日

94歳のアウシュビッツ元看守に禁錮5年の判決(2):日本の政治家は「理不尽」と叫ぶのではなく現実的対応を学ぶべき

1)94歳のアウシュビッツ元看守に禁錮5年の判決 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160618/k10010560651000.html について、昨年この裁判が報じられた記事を引用し、ドイツ人は卑怯だと書いた(昨日再度リファー)。その理由は、自分たちが選んだ政権により、自分たちの納めた税金を用いて行われた行為(ナチによるホロコースト)でありながら、自分たちは素知らぬ顏をするために、同胞である直接関係のない守衛を70年後の今になって生贄として差し出したからである。

しかし、今回再度この件を考えてみて、生贄を受け取る側のことも考えなくてはいけないと思うに至った。つまり、それを受け取る側が、それほどドイツ人一般を破滅への縁側に立たせたのだと考えるべきだろう。ドイツもこのような裁判は理不尽であると百も承知だろう。しかし、それ以外に生き残る手段が無かったとしたなら、あの卑怯な居直りも仕方がないのだろうと思うのである。 そのように考えると、見方が180度変わってしまう。何事も片方だけ、反作用だけ見て議論してはいけない。たとえ自分に見えなくても、作用なくして反作用はないのだから。我々日本も、ドイツの現実主義に学ぶべきかもしれない。

西欧諸国特にドイツの昨今の中国への接近は、この件と関係がありそうに思う。米国とそれを支配する勝者は、ドイツにあのような裁判を強いたのだから。そして、米国は内向きになりつつあり、逆に中国は外向きになりつつあるのだから、そう考えるのは当然かもしれない。

2)西欧のこの逞しい考え方には、歴史があるだろう。素人ではあるが、それを少し考えて、日本のとるべき道を考えてみた。

我々は言葉で考える。そして、その「言葉は世界に一致する」と聖書には書かれている(補足1)。しかし、聖書に長く付き合った西欧の人々は、同時に哲学する人々でもある。そして19世紀生まれの人の言葉には、現実とは決して言葉で語り得るものではないと書かれている(補足2)。それでも尚、人は現実を言葉で語るしかなく、それほど知的でない人や敗者は「この世は理不尽」という言葉を吐く。しかしそれは、自然は不可解と言うのとほとんど同じである。現実を理解し、現実に近づくべきは自分であり、それが大人としての人間の態度である(補足3)。

日本の政治評論家の一部に歴史家の様な顔をし、過去の日本の歴史を肯定する視点に強く拘っている人たちがいる。彼らは、「現時点の世界(現実)を見ないでおこう、理不尽だと叫ぼう」と国民に向かって言う(補足4)。しかしその方向は、国を滅ぼす道ではないかと危惧する。ドイツに学ぶべきはその点であり、メルケル首相が昨年安倍総理に進言したのは、ひょっとしてそのような意味のことではなかったのかと想像する。

歴史に真実などない(補足5)。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html 歴史は民族であれ国家であれ、勝ち残った者が書いた人類の物語である。その物語の中に将来に亘って残ることが善であり、過去の自分たちが勝手に描いた“善”に拘り、滅びの道を進むのは愚である。滅びの場面で、善の道に向かって「理不尽」とめめしく叫ぶのは、そのような民族の最後の虚しい権利だろう。

現実主義においては、中国はドイツなど西欧諸国の先輩かもしれない。日中国交回復のとき、周恩来が田中角栄に送った色紙の「言必信行必果」は、論語で三流人間のとるべき態度として記述された言葉である。この論語とそのような言葉を日本の総理大臣に送るという現実主義が、中国の政治である。http://www.chichi-yasuoka.com/episode06.html 

日本は、最初に引用したドイツの裁判を深く議論すべきであると思う。

補足:
1)ヨハネによる福音書の冒頭
2)言葉と現実の違いを論じた西洋の哲学者には、フェルナンド・ソシュールや最近のジャック・ラカンなどがいる。(素人なので、詳しくは哲学書を参照してください。)
3)「言うは易く行うは難し」ではある。
4)これは日本では右派と呼ばれる人々。例えば、桜井よしこさんの意見についてのコメントを書いたことがある。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41369336.html 歴史家はそれぞれ独自の見解を発表すれば良いが、政治家や政治評論家は現実主義でなくてはならないと思う。
5)真実を言葉を用いて記述することは不可能である。歴史は出来事(不完全な独自の記述)を時系列で繋ぐ物語である。それ故、歴史は科学ではなく文学である。(追加)

2016年6月18日土曜日

ヘリコプターマネーは高いインフレを招き、結果的に国民の預金を収奪する政策である

1)円高不況が再来しそうな日本だが、どうしてこのようなことになるのか? 以下のサイトにその原因として、需要不足と供給能力不足という二つの側面が書かれている。その対策である構造改革や規制緩和などは、よく言及されるがもっと具体的に書いて欲しいと思う。http://www.newsweekjapan.jp/kaya/2016/03/post-12_2.php

需要不足というのは、現在の設備等で供給できるサービスの中において、今欲しい物の量が供給力以下であるということである。供給能力の不足というのは、同じ様な状態を「今すぐ欲しくなるようなものを、会社が作り出してない」と視点を換えて言っているのである。しかし後者の見方をすれば希望が残る。国民がそれほど幸せに暮らしているとは思えないのだから、それらを部分的であれ解決できる様に新しい経済的仕組みを作ることで、不況から脱却できる可能性がある。つまり、国民の不満の対策になり得る、物質的、技術的、人的サービスを経済活動に乗せるのである(補足1)。そのような新しい供給能力は長い時間スケールでは具体化するだろうが、現在中高年である人間には間に合わない。

兎に角、今日ほとんどの国民はそれほど幸せでないが、一応生活はできるレベルにある。その様な場合、日本人の精神構造では将来に備えることを考える。会社でも個人でも国家でも、自分(自社、自国)はあまり借金したくないので節約をして貯蓄に走る(補足2)。しかしそのことが不景気の原因であることには気付かない。幸せでない人間の習性は、防衛的且つ保守的になることであり、そして、それは今後豊かになる展望を自ら閉ざしていることになる。経済的デフレスパイラルは心理的デフレスパイラルと並行すると思うのである。

そのような状況を変えるのに、ヘリコプターマネーという劇薬が効くだろうか? 覚せい剤のように一時的に快楽を得るだろうが、破局に向かうだけだと思う。http://jp.reuters.com/article/column-forexforum-tohru-sasaki-idJPKCN0WQ0RJ 上記サイトで主張するように、円の暴落と国民が溜め込んだ預金を実質ゼロにすること、換言すれば、国家による国民の預金収奪が隠れた目的であると思う。それはマクロには一つの解決策であるが、ミクロに見れば、国民はたまったものではない。

2)日本におけるデフレの原因について少し時間を遡って考える。

経済活動は売り買いであり、それらはお金(マネー)を媒介にして行われる。売り買いというが、それはマネーを媒介にした等価交換であり、買った金額と売った金額は当然等しくなる。したがって、貯金をすれば、その分は誰かが借金していることになる。日本は、国民が貯金をして、その分政府や企業が借金をすることで経済が回ってきたが、それも限界に来た(補足3)。そして、世界では米国が借金をして他国が貯金をすることで経済が回ってきたが、それも限界にきたのである。ヘリコプターマネーという政策は、この限界をリセットしようという国家の自己破産政策だと思う。

経済の拡大期には、食べるものも住む家も電化製品も欲しいものばかりであり、それらを一応揃えるまでは貯蓄どころではない。その大きな実需要と将来の潜在的需要のため、企業も将来を楽観する時期であり、誰かが預金をしたとしても、その金は他の会社などが利息を支払って借り投資に用いる。需要が供給を上回れば物価が上昇するので、有利で借りても返済への負担は額面ほど大きくない。つまり、貯金は控えめに行い、将来を楽観的に考えて欲しいものは買うのが、資本主義社会の経済が難なく回っていく条件である。これは先進国へのキャッチアップの段階である。

今の日本や欧米先進諸国は、その時期、つまり、産業革命後の技術革新と生活環境の改善の時期が一通り終わり、大きくなった会社(資本)が新しい需要を求めて海外に進出する時期である(補足4)。それを可能にするために、従来の国境を跨ぐ際の規制などをなくして、企業が世界中に進出しやすい環境を作るべく先頭にたったのが、米国など先進国であり、それを支配する巨大資本である。それが、所謂経済のグローバル化である。

その結果、ほとんどの工業製品にはmade in chinaの文字が刻まれていることになり、国内産業は新しいものを生み出さなければ生存できる空間が狭くなる(補足5)。そのため、種々の経済活動の障壁や事業転換を容易にするための障害などを撤廃しようというのが、ネオリベラリズム(新自由主義)であり、グローバリズムと同根であると思う。その結果生じたのは、大きな貧富の差であった。

外国での企業活動を含めて、日本の会社と個人の全体での収支はかなりの黒字であっても、一部の資本家と富裕階級を除いて、多くのその他の人々には富の分配は行き渡らない。その結果、将来に不安を持つようになり、悲観気分は増幅され貯蓄に励むことになり、経済は冷える。その結果、小さい政府ではやはり駄目であるということになり、社会主義的側面をもった大きな政府の出番となる。それは歴史の流れだろうと思う。

ヘリコプターマネーは、その最も安易な政策であると思う。この政策は、長く自由主義に親しんだために、社会主義的政策の匂いを嫌う人たちが、富裕層の金に直接手をつけないで経済の循環を確保したいという政策である様に思う。しかし、それは失敗するだろう。

兌換紙幣から不換紙幣に移った時、インフレは起こるだろうが、国家の信用が紙幣の信用を支えるだろう。しかし、ヘリコプターマネーを実行すると、紙幣はその国家の信用とも切り離され、その結果必然として紙切れへと変わることになると思う(補足6)。国際金融取引が盛んな今日、最初に外国投資家が円建て国債を売ることになり、実行直後に円は暴落してしまうと思う。

ヘリコプターマネーを支持する人たちに、前米国FRB議長のバーナンキ氏や、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ氏などがいると聞く。彼らは議論に火をつけるために言ってみただけだろう。実際、世界の中央銀行の総裁(EUのドラギ中央銀行総裁、米国のイエレンFRB議長)らは、考えたことがないと証言している。マクロ経済学者の片岡剛士氏は、赤字国債発行してのヘリコプターマネー政策を、600兆GDP達成までなどの限界を設けてやるのには賛成と言っている。限界を設けることができないのが、この政策の覚せい剤的なところだと思う。片岡氏は、日本のハイパーインフレを、ヘリコプターマネー的政策を実行した高橋是清の責任にするのはおかしいと言っているが、今回はそれを証明することになると思う。

(以上、完全な素人の思考メモです。批判をお願いします。)

補足:
1)最近では、パソコン、インターネット、携帯電話(スマホ)などだが、これらは全て米国発である。この種の延長として、自動運転の車、ドローンとそれによる宅配、水素自動車や水素電池(離島での太陽光発電と水素製造)、介護ロボットなどロボット産業などがある。
2)日本の精神構造を代表するのが京都である。京都発の企業には、セッセと預金に励む企業が多い。任天堂、京セラ、ローム、島津製作所、村田製作所、などである。
3)経済が停滞すると、企業も保守的になり借金を減らすようになる。
4)産業革命前は、土地が財を生むほとんど唯一のものであった。そこで、新式武器を持つ先進国はそれ以外を植民地支配してその土地を奪い、住民は奴隷化して富を蓄積した。産業革命後は、土地よりも会社、つまりお金と設備などの資産(つまり資本)と技術などの知的資本が富を生む中心的なり、発展途上国はその活動の場として支配されることになる。
植民地支配と異なるのは、途上国経済も発展して、国民の生活レベルが向上することである。その結果、発展した途上国も、新しく同様の支配国を探すか、すでに先進国が進出している国を奪い取るかの経済戦争に参加することが可能になる。これは昔の植民地を争う戦争と同じであり、現代の戦争とも言える。ひょっとして、核兵器、空母、迎撃ミサイルシステム、原子力潜水艦など巨大兵器はそれにふさわしいのか?という疑問も生じるが、それについては後で考察する。
5)この新しいものとして、健康食品や健康器具などかなりイカガワシイものにも大企業が参加するようになった。
6)高橋是清は大蔵大臣として、日銀による国債引き受けで政府支出を増加させ、恐慌からの回復ができたが、軍部の要求で歯止めがきかなくなり(226事件)、戦後のハイパーインフレに繋がった。現在、財政法5条で公債の直接引きうけは禁止されている。

2016年6月15日水曜日

舛添氏は極悪知事か?

1)このところテレビも新聞も舛添一色である。
舛添氏は政治資金の使い方が合法であると主張して、辞職だけは避けたかった様だが無理な様である。もともと、政治資金の利用が合法か非合法かが問われているのではなく、都知事として信頼できる人かどうかが問われているのだと、4月29日のブログに書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42770325.html そこでは、本当に問題にすべきは、在日韓国人学校建設のために利用価値の高い都有地を貸し出す決定をしたことだと指摘した。

舛添氏は、週初めの都議会でブラジルでのオリンピックまでは、不信任決議をしないでもらいたいと議会に泣き言を言っている。誠にみっともないように見える。しかしここでは、あえて異論を述べたい。いったい舛添氏の行った何に対して、議会は攻撃しているのか?このような大騒ぎは、舛添氏のしたことにふさわしいのか?もっと大事なことはないのか?

今朝の読売新聞は一面から三面まで、社説を含めて、政治資金の使途に対する舛添攻撃一色である。その中に紛れるように、フロリダの銃乱射は、単独犯らしいということや英国のEU離脱懸念が株安を呼んでいるという、本来なら舛添氏の件よりはるかに大事なことが小さく書かれている。世界大不況の引き金が引かれるかもしれないこの時、何をくだらないことで紙面を浪費しているのか?

もし都知事の政治資金の使途の違法性が疑われるのなら、地検の特捜部などが動くべきである。もし地検も、舛添氏が選んだ弁護士の調べ以上のことが出ないと判断したのなら、都議会はそのようなことで、不信任案を出すべきでは無いと思う。(補足1)都知事の追求はもう十分であり、あとは次回選挙で落とすことで問題は解決する。

簡単でな無いのは、むしろ政治資金の使われ方とそれを規制する法の問題である。それについては、国会が議論を引き継げば良いと思う。都議会の解散となれば、数十億円のお金を使って選挙をやる必要があるし、その間都政の遅滞を招く。無駄金を使うことになり、それは舛添氏の家族のホテル代や飲み食いの代金よりはるかに高いだろう。

2)全く別の視点からこの件を眺めることも大事である。つまり、この件の炎上の仕方は異常であり、何か別の勢力が関係していないかが疑われる。それは、経済が一向に上向かないことから、国民の目からそらしたいという意向が反映しているのではないかということである。もちろん、最初からそれを考えて週刊誌に情報リークしたのか、その後事件化して大きく面白くなりだしてからかわからないが。

新聞は読者の面白がる記事を面白く書くのが使命なら現状のような紙面になるだろう。しかし、ほとんどの国民読者が新聞に期待しているのは、大事なこと、気づきにくいことなどを、玄人の立場から書くことだろう。そして、読者に偏りのない世界の知識を供給することが使命だろう。ましてや、現政権におもねり、アベノミククスが失敗だったのではないかなどという記事を書かないようにするというのでは、新聞の存在理由を放棄している。

この国のマスコミは一貫して本当にレベルが低い。戦前は軍部の宣伝を引き受けたのと同じように、戦後はどこかから流れてくくる情報を無批判に垂れ流すだけの存在であると思ってしまう。

補足:
1)韓国人学校への都有地貸し出しなどの都政上の問題に不審を持つのなら、不信任案を出す理由になり得ると思う。

2016年6月13日月曜日

米国で完全な銃規制は可能か?

1)先週米国のある女性歌手が、フロリダのコンサート会場で銃により撃たれて死亡した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160611-00000027-jij_afp-int  昨日も(日本時間午後3時)フロリダの同じOrlandoという町で、無差別に発射された銃弾により50人が殺されるテロが発生した。この件、その後イスラム国から犯行声明がだされた。犯人は、イスラム国から派遣されたのではなく、米国で育った人間がイスラム国の考えに共鳴して事件を起こしたのだろうと言われている。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160612-00000082-jij-n_ame

上記ヤフー記事にはコメント欄が付随しており、そこでは、「銃に関する日本の規制は絶対正しい」という意見、「銃で守れた人の数より銃で殺された罪もない人の数の方が絶対多いと思う。なぜまだ銃を持ち続けるのか」というようなナイーブな意見が、日本では圧倒的に多い。(補足1)

同じコメント欄には更に、米国の銃社会が悪いとか、全米ライフル協会が悪いとか、その支持を得ている共和党が悪いという類のコメントが見られるが、それらはナイーブというより他国に干渉する無配慮なコメントだと思う。つまり、銃保持を権利として認めた米国の歴史的背景を考えないで、安易な推論を公にするみっともない行為だと思う。もちろん、発言は自由ではあるが。

2)昨日の事件は犠牲者の数が多いことや、テロリズムであるという点で相当深刻である。そして既に、大統領選挙への影響も出ている。①銃規制を厳しくすべきという意見と、②イスラム系難民や移民を安易に受け入れるべきでないという意見の両方が、選挙の争点になるだろう。

ウオールストリートジャーナル日本版では、クリントン候補とトランプ候補の言動がそれぞれ掲載されている。http://jp.wsj.com/articles/SB11611722697749014104804582125421627994392 クリントン氏は、「米国は国内外の脅威から国を守る努力を倍加させなければならない」、及び「戦争用兵器が街中に存在する余地がないことを改めて思い出させる」と声明を出した。そしてトランプ氏は、「イスラム過激派のテロに対し、(わたしが)正しいことを主張してきた。タフで警戒を怠らないようにし、われわれは賢くならなければならない」と呼びかける一方、銃所持の権利擁護の立場を打ち出し、クリントン氏が銃保持の権利を保障する憲法修正第2条の廃止を求めていると非難している。

3)この米国は、銃保持を禁止すべきかどうかという問題を日本人が考える場合、「日本と米国の違いは何か?」「なぜ米国では、人々は銃を持つか?」などを米国人の歴史などを念頭に置いて考えなければならない。

米国は多民族国家であり、出自が様々な人たちが集まっている。そのような人々を構成員にして安定な社会と国家を建設するには、自由と平等を旗頭にすることが必須条件だろう。この点、日本のように同一民族と信じている人々がほぼ共通の文化の下で暮らしている国とは根本的に異なる。黙っていても以心伝心というわけには行かない。

自由且つ平等な立場で会話を行うことが意思の相互伝達には必須であると思うが、それが成立する前提として、「貧富の差、体の大小、肌の色、男女の区別、年齢の差などが、自由で平等な意見の表明を封じることにならない」ということが必要であると思う。

自由な意見の表明を封じるのは暴力である。そこで、米国には「個人は他の暴力から自分を守る固有の権利を有する」と考える文化があるのだろう。その各人が銃で武装する権利を放棄するには、警察と司法がその暴力を未然に防ぐ瞬時の対応ができなければならない。米国は広い国で、多種多様な文化を持つ非均一な国であるため、そのような対応は日本よりも相当困難である。(日本でも不可能である。)

銃の保持を完全に禁止した時、例えば、田舎の道で出会った粗雑に見える大男の一瞥は、全ての言論を封じるだろう。そこでは、自由と平等という共通の価値観を全ての国民が信じ、その礎の上に単一の国家を建設することは無理になるのではないだろうか。

補足:
1)戦争に関する以下のような考えと同じレベルである:戦争で命が助かった人よりも絶対戦争で殺された人の方が多い。やはり戦争はすべきではない。隣国と平和共存の道を探すべきである。

2016年6月12日日曜日

ヘイトスピーチ規制法と言論の自由について:

§(1)自民、公明両党が提出した特定の人種や民族への差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)の解消を目指す対策法が5月24日午後、衆院本会議で可決、成立した。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6202010

このヘイトスピーチ規制法は、在日韓国人らに向けた言動を念頭に、適法に日本に住む日本以外の出身者や子孫に対する「不当な差別的言動は許されない」と明記。対象の言動を「差別意識を助長する目的で、公然と危害を加える旨を告知したり、著しく侮蔑したりして地域社会から排除することを扇動する」ものと定義した。

国に対し、相談体制の整備や教育啓発活動の充実に取り組むことを責務と定め、自治体には同様の対策に努めるよう求める。付則では、こうした取り組みについて「必要に応じて検討を加える」とした。

§(2)提案者の一人である自民党参議院議員の西田昌司氏の解説がhttps://www.youtube.com/watch?v=Dtw9c67uVWIにビデオレターという形で出されている。その要約を作ったので記す。

この法案では、(1)言論の自由に反する恐れがあること、(2)定義する際に際立ったものが定義対象になると、それ以外は禁止されていないという解釈がでてくるので、禁止規定はつけなかった。つまり、在日韓国朝鮮人にたいする差別的な言動を規制する為の法案であるが、その言論を禁止しているわけではなく、そのような行為は恥ずかしいこと、好ましく無い行為であると国会が宣言する為の法律である。

最近、わざわざ大挙して地域の外から在日韓国朝鮮人の人たちが住む地域に出かけ、ことを荒立てていわれなき非難を繰り返し行う行為が多発している。それを放置するのは、日本人としては恥ずかしいことである。それを止める為には結局、教育、啓発、相談をしっかりやっていくしかないという理念を規定したのが、この提案の意味である。

参議院の法務委員会で川崎のさくらもちというところを視察した。そこで住民の意見を聞くと、日本人も在日も最近までは仲良く暮らしていたという。また、在日の方から聞くと、日本に来た当初は差別発言に耐えて暮らしていたが、戦後何十年も住んでいると地域社会に融和して、そのような差別発言を聞かなくなっていた。それは日本の民度が上がった証拠であった。それにもかかわらず、今日そのような暴力的言動を行うものが出てきた(ので、このような法案を出すことになった)。

法律を作ってどうなるか? この制定は、国会がそのような言動が恥ずかしいことだと宣言し、その理念を国民に伝達するためである。基本的に人間は自由に発言できるが、そのことで相手を傷つけることまで自由かというとそれは難しい問題だ。それを法で規制するのは、戦前の治安維持法的になるので、そのような禁止事項をつけなかった。

§(3)反論:
西田氏の説明は、極めて不十分なものである。西田氏は、ヘイトスピーチとその現状について、日本国内しかも現在だけを視野にいれて説明しているが、その出現は最近の反日を国是とするような韓国の対日姿勢に原因があるからである。具体的には、従軍慰安婦に関する事実関係をねじ曲げてプロパガンダに用いてきたこと、泥棒たちから仏像を取り上げながら、対馬の寺にそれを返還しないなど近代の法慣習を無視すること、軍艦島での徴用工を「強制連行して働かせた」と主張することなど、韓国政府は国を挙げて歴史捏造による日本攻撃を繰り返してきた。我々日本人にとって極めて不愉快なことを、論理や歴史を無視し、中国という虎の威を借りて行っている。ヘイトスピーチ規制法の説明にこのようなビデオレターを公表するなど、西田氏は一体どこの国の国会議員なのかと不思議に思う。

また、在日三世になっても帰化せずに、上記反日姿勢を強める韓国の国籍を保持したまま日本に居続け、暫定的に設けられた在日特権を持ち続けるという、理解できない人たちに対して一言くらい言いたいのは、彼らマイクをもって出かける人だけではないだろう。それらを説明の中で全く無視しているのは、欺瞞そのものである。

また、チャンネル桜のホストである水島氏は、以下の動画で
https://www.youtube.com/watch?v=TlUU6Epz8tg ボルテールの言葉を引用してこのヘイトスピーチ規制法に反論している:「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。 つまり、西田議員は、「言論の自由の規定に反しないように禁止条項や罰則はつけなかった」と言い訳をしたが、しかし法律として作った以上、言論の自由を束縛するというのである。

私はこの水島氏の意見に賛成である。なぜなら、西田議員が視察で見てきたといったヘイトスピーチがあまりにもひどくて、日常生活に支障をきたすのであれば、威力業務妨害や脅迫などの犯罪として取り締まることが可能な筈だからである。それに、あらゆる言論封殺も最初はわからないような形で法制化され、それが徐々に国民全体を縛るように変化する可能性があるからである。

この法律を西田氏の説明に沿って一言で説明すれば、「在日韓国(朝鮮)人に対して“日本から出ていけ”と言うことは、この法律に照らして違法行為である。しかし、この法律はその行為を禁止はしないし、罰もあたえる根拠にはならない。」ということになる。つまり、一言で言えば「訳のわからない法律」ということになり、悪用されればその害は思わぬところで顕在化するのではないだろうか。西田氏が教育、啓発、相談の3つが大事だというが、それだけでは新たな法案が必要な理由にはならない。国会で決議を行えばよいだけである。では、何故このような法律が必要なのか?

目的は、この法律を基礎にして、今後より厳しいものに改訂していく、更には、日本の国会による、米国や韓国など外国政府に媚びるための「思いやり法律」である、の両方だろう。日本は戦後一貫して他国の属国であり、その現体制を守るために必要とあれば言論封殺する国であるということなのだろう。

国連は日本に対して、ヘイトスピーチを規制するように要望しているが、これは潘基文が国連を利用して内政干渉してきたのだろう。http://bylines.news.yahoo.co.jp/bandotaro/20140805-00038008/

尚、潘基文については何度もブログに書いている。国連を利用する潘基文:http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42502736.html &http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41369358.html

2016年6月10日金曜日

ニホニウムという新元素の名前について(追補)

昨日、ニホニウムの名前が国名を誇示的に使っていると書いたが、ちょっと考察が不十分だったかもしれない。その理由の一つは、ゲルマニウム(Germanium;ドイツ)、フランシウム(Francium;フランス)、ポロニウム(polonium;ポーランド)など、国名を元素名にしている例がかなりあり、今はそれほど奥ゆかしくなる必要もないだろうということである。http://mh.rgr.jp/memo/mq0112.htm

前回の記事では、「ユカワニウムが相応しいかも」と書いたのは、科学を純粋で政治抜きの国際的な世界として考える姿勢を貫きつつ、原子核構造の解明について最も基本的な業績をあげたのは日本人である(中間子理論の湯川秀樹)と世界に宣伝するチャンスだと思ったからである。

政治的な意図を匂わるのは、あまり好ましくない(補足1)と思うのは、科学の世界は政治や宗教からは独立しており、それが科学をここまで発展させた重要な条件だからである。(政治と宗教から科学の独立を保った例として、地動説を唱え裁判にかけられたが屈しなかったガリレオ・ガリレイを思い出す。)

今回の研究では、理化学研究所の最新鋭の線形加速器が最も重要な装置として使われており、昨年のノーベル賞で話題になったニュートリノ研究などと同様“ビッグサイエンス”としてなされたものの一つである。科学と政治の関係は基礎科学といえども、20世紀以降大きく変わったのかもしれない。従って、日本国の支援を意識して、ニホニウムの名前をつけたという考えは十分理解できると思う。

補足:
1)森田教授は記者会見の中で、「国家の予算として多額の支援金をもらって研究したことを、“国民の支援を受けた”と表現し、その謝意をニホニウムという名称に反映した」という趣旨のことを言っておられたたと記憶する。

2016年6月9日木曜日

喜びも 中ぐらいかな ニホニュウム:新元素の命名について

1)理化学研究所などが発見した原子番号113の元素に、ニホニュウムの名前が付けられるらしい。日本人研究者の発見した元素の名前が、「日本」に因んだ名前で周期表に載るのは、喜ばしいことである。この元素は、原子番号30の亜鉛のイオンを加速器を用いて高速にして、原子番号83のビスマスの原子にぶつけ融合させて作るという。

そのニホニウムだが、生成確率は1700京回の衝突で、ようやく1回だという。しかも、ニホニウム原子は生成しても1ミリ秒以下の時間で崩壊するのだそうだ。http://www.org-chem.org/yuuki/SMS/113.html

従って、原子一個がイオンの状態で生成するのみであり、金属のような巨視的物質にはなり得ない。「そんな物、元素と言えるのか?」という疑問が化学専門の者には起こる。従って、科学的には大きな成果だが、現実的には日本の国威発揚あるいは国際的存在感を高めること以外には役にたたないだろう。

2)元素とは、万物の元となる素物質というくらいの意味だろうが、原子番号113の元素は地球上だけでなく宇宙にも存在しないだろう。天然に存在する原子番号の大きい元素のトップスリーは、原子番号92のウランや、ウラン鉱石に同時に含まれる原子番号93のネプツニュームと同94番のプルトニュームだという。それ以外は理研の方法と同じく、原子核(より正確にはイオン)を衝突させて作られた。

それらの名前は地名や人名を捩って付けられている。原子番号96番がキュリウム(キュリー夫妻に因む)、99番はアインシュタイニウム(アインシュタインに因む)、100番はフェルミウム(フェルミに因む)などである。(補足1)

これらの名前などと比較して、ニホニウムという名前は新元素にふさわしいのだろうか?  他国に対しては誇示的であり、すこし疑問が残る。例えば、核兵器に反対なら非核を捩ってヒカクニウムや、平和を捩ってヘイワニウムくらいの名前をつけた方が面白いと思う。短寿命の平和は困るというのなら、湯川秀樹の名前を入れて、例えば、ユカワニウムにしたらどうだろうか。

補足:
1)原子番号95番はアメリシウムであり、アメリカ大陸に因んで付けられた。97番はバークリウムであり、これはカリフォルニア大学バークレー校の地名による。98番はカリフォルニウムで、名前の由来はいうまでもない。

2016年6月6日月曜日

米国の広島長崎での核兵器使用は正当化できるか:昨日のそこまで言って委員会の感想

そこまで言って委員会で、米国の広島と長崎での核兵器使用は仕方なかったのか、日本は核武装保持を議論すべきかどうかなどについて議論していた。番組の中心部分で取り上げたのは、「米国の原爆投下正当化論を受け入れることができますか」という質問だった。YES 又はNOの札をパネラー8名に上げさせ、各パネラーが意見を出し、それに対して全員が議論をしていた。しかし、パネラーの間で意見がほとんど噛み合っていなかった。このような問題の場合、もっと厳密に質問を設定しなければ、議論にならない。兎に角、司会の辛抱氏が「この番組は政治バラエティーです」と以前言ったことがあるので、まともな議論を期待する方がおかしいのかもしれない。しかし、視聴者に誤解を与えるので、この種の重要な問題を議論するのなら、もう少し真面目な番組にしてほしいと思う。

1)この「米国の原爆投下の正当化論を受け入れるかどうか」という質問のコーナーでは、質問設定の時に、米国陸軍長官のH.スチムソンの“原爆を投下せずに本土決戦となれば、米兵100万人の犠牲者がでただろう”という正当化論の論文が発表され、それが米国世論を作ったと紹介している。しかし、このスチムソンの正当化論やそのほかの個別の正当化論ではなく、「米国の原爆投下の正当化を受け入れるか」に質問を拡大して議論を進めていた。正当化論の「論」がなくなっているのである(補足1)。つまり、何時の間にか、「正当化論を受け入れるか」から「正当だったか」に問題をすり替えて、あえて議論が混乱するようにしている。

歴史のある大きな出来事を個別に取り出して、「それが正当かどうか」と漠然と問い掛けるのは、情況や諸条件を抜きに「人を殺すことは正当か」と質問するのと似ていると思う。各個人が自分で問題を勝手に設定して答えているから噛み合う筈がない。

西欧によるアジアの植民地支配が盛んな頃、有色人種の日本人が中国に侵攻したことを欧米が許さなかった。そして、米国等による政治的経済的制裁で、日本は戦争に追い詰められた。その大きな歴史の流れに対する理解がパネラーの間で全くことなるかもしれないのに、戦争末期の原爆投下だけを取り上げ、しかも現代的視点や倫理観で議論することにどれだけの意味があるのか。

米国の戦略的見地に立てば、原爆投下が日本の降伏を早めたことは事実だろう(補足2)。ポツダム宣言の受諾が遅れたら、ソ連の北海道占領とその際の膨大な一般市民の被害者が予想される。本土決戦ということになった場合、民間人の被害は想像を超える数値になるかもしれない。原爆投下が無かった場合の方が日本国民にとって悲劇的な結末になっていたのではないかと思う。原爆投下が「人道的見地からは正当化されない」と言ってみても、死んだ人の命は帰ってこない。兎に角、歴史を勉強することは大切だが、裁くことは愚かな行為だと思う。

2)このようなバラエティー番組的な傾向は、番組の最初にパネラーに向けられた質問で際立っていた。「人類が核エネルギーを手にしたことは良かったかどうか」というものである。良かったが3名、どちらとも言えないが4名、よくなかったが1名であった。この質問も自然科学の歴史の一つのトピックスだけ取り出して、それが人間にとって良かったかどうかと聞いている。

物理と化学の研究は、元素、分子とそれを構成する原子の構造、原子核の構造へと進み、その恩恵を受けて現代文明が築かれている。その科学発展の歴史のなかで、放射能や原子核の構造研究から、核化学という分野の発生、そして原爆の発明は自然な流れである。つまり、現代文明を諦めるか、原爆を手にする人類の運命を受け入れるかの選択ならわかるが、核エネルギーを人類が手にしたことが悪かったとか良かったという議論をするのは愚かだと思う。

3)また、最後の方での核兵器が将来廃絶できるか?の質問において、パネラーの間では出来るという意見が半分あった。出来ると言ったのは、長谷川、田嶋、加藤、竹田の4氏である。核兵器の廃絶など宮家氏の言う通り、出来るわけがない。紹介されていたオバマ大統領の核兵器削減の意見は欺瞞である。核廃絶実現を本気で考えていたのなら、ノーベル財団という小さな団体による評価など不要なだけでなく、米国大統領の決断をバカにする気かと怒るべき話の筈だ。オバマ氏の核廃絶演説の裏の狙いは、核兵器拡散を防ぐことであり、それは核兵器をいざという時の脅しの道具として保持したいという米国の意思と合致していると思う。オバマ氏もノーベル賞は、「呉れるといっているのだから、断るのはもったいない」と考えた筈である。

「人間の良識を信じたい」ということで、核廃絶は可能だと言った長谷川氏の意見や、「オバマ氏の広島訪問に感動した。出来ないかもしれないが、核廃絶を信じるしかない」という加藤氏の意見などは、論理が支離滅裂であり、現実論と理想論の区別さえできていない。現実論と理想論は、思考上”基底”として頭の中で使うのが人間のまともな知性だが、思考の途中で両者を混ぜてしまっては論理的な思考は不可能となるのだ。最初から理想論しか浮かばない(振りをしている)田嶋氏は「他国の回し者でない」なら、およそ理解不可能な人物である。竹田氏の核兵器U-ターン兵器の開発というドクター中松のアイデアは、冗談としては非常に面白かった。

また、核抑止力があったから平和がまもられたという考えは間違いだと思う。この70年間、経済成長により生活が豊かになってきたということが、日本周辺の世界で平和が保たれた理由である。貧困にあえぐようになれば、核兵器を使用した戦争さえ起こるだろう。さらに、サイバー攻撃が戦争の主役になるという話があったと記憶する。そして、核兵器発射のボタンさえ乗っ取られる時代だといった人もいたと思う。しかし、核兵器の発射をネットに頼る必要などない。制御などにコンピュータが必要なら、スタンドアロンで使えば良いと思う。

補足:
1)より正確に言えば、番組では「正当化」と「正当化論」の区別していない。正当化論は英語でいう可算名詞であり、個別に厳密に議論ができる。しかし、正当化は不可算名詞であり、米国の態度そのものであり、それにイエスかノーかを決めることは、歴史を裁く行為になる。日本語の出来が悪いのが、このような議論になる原因かもしれない。
2)竹田氏は「原爆投下が原因というが、それなら東京大空襲の時に降伏を考えた筈だ。原爆ではなくソ連の参戦が降伏を決意した原因である」と混ぜ返す。しかし、半藤一利さんの昭和史によると、ポツダム宣言が出された翌日に、昭和天皇は東郷外相に「これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。原則として受諾するほかはないだろう」と言われたとある。(468頁)また、広島に原爆が投下された二日後に、天皇は木戸内大臣に「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない」と言われたという。(477頁)竹田氏は、この昭和史の記述を否定するのだろうか? 最近、西尾幹二さんと現代史研究会の本、「自ら歴史を貶める日本人」を買った。その中には、半藤さんの昭和史は、木(日本周辺)を見て森(世界全体)をみていないと非難されている。この点、すこし勉強するつもりである。

2016年6月4日土曜日

清原元選手の覚せい剤犯罪:執行猶予という量刑と名球会除名についての議論

元プロ野球選手の清原氏の覚せい剤使用事件について、執行猶予付き懲役刑の判決がでた。それと関連して、清原氏に関係のある人たちや関係機関の対応について、昨日のテレビ番組(6月3日東海テレビ午後1時「バイキング」)で議論していた。やくみつる氏の「野球界から追放すべき」という意見が紹介されていた。私は、この意見には強く反対するが、その理由は後述するとして、先ず量刑と再犯との問題を考える。

1)覚せい剤使用で一度刑事罰を受けても、その後の再犯率が80%程度もあり、非常に高いと言われている。http://www.news-postseven.com/archives/20140527_257890.html そこで、厳しい処分はむしろ本人の為にもなり、執行猶予付きの判決はむしろ清原氏にとってマイナスであるという意見が多かった。

この量刑については、犯した犯罪との関連で決められたことだと思う。罪の重さに比べて刑が軽すぎるのではないかという議論は傾聴に価する。しかし、テレビのスタジオの中で多かった、再犯予防を考えて重く罰するという考え方はおかしいと思う。処罰に、他の者を覚せい剤から遠ざけるという社会防衛的な意味はあってもよいが、犯罪人本人の出所後の人生に干渉して余分に刑を課すのは間違いだと思う。出所後どうするかは、本人が決めればよいことである。

刑罰に対する考え方に、目的刑論というのがあり、本人の再犯を防止する意味で刑を課すという考えは特別予防論にあたる。一般予防論、つまり、「刑罰は社会一般をその犯罪から遠ざける役割がある」という考えには賛成だが、成人に対する処罰に対して特別予防論を用いるのは、量刑をいくらでも重くできるという点、及び、人間の尊厳に関わるという二つの点で反対である(補足1)。

清原氏の場合、覚せい剤の入手経路についての証言がなかったということである。その件については、解放された後に元の入手先からの接触があり、それを契機に再犯の可能性が高いという見方もある。しかし、再度接触してきた者に、「解放後きっぱりと止める為に、入手先を明かさなかったのだ」と言えるので、清原氏個人の力でそれ以後の付き合いを止めることを可能にする有力な武器だと思う。

入手経路を明かし、芋づる式に多数の者が逮捕されたとしても、その先にはもっと大きな組織が存在する。その場合、刑を終えて出所したときには、その組織は報復を兼ねて再度覚せい剤への道へ引きずり込む可能性が高いのではないだろうか。そのような組織を国内から一掃しないのは、国家の怠慢である。

つまり、この清原氏の件の大きな原因を作ったのは日本国そのものである。従って、国民はその罪を負うことを拒否したいのなら、もっと行政の怠慢を攻撃すべきである。(補足2)

2)名球会から除名するという考えについて:
名球会は一定以上の生涯記録、例えば、打者なら2000本安打、を入会資格とする社団法人であり、「野球振興」と「社会貢献」とを目的とする(ウィキペディア)。ゲスト出演した元阪神の江本氏のいうように、清原氏を除名するかしないかは、その団体が規約に則り決めればよいことである。ただし、(覚せい剤取締法違反などの)犯罪を犯した者をその団体から除名することが直接的に規約になければ、すべきでないと思う。

名球会は一社団法人であるが、その名簿は野球フアンの中に残る鮮烈な記憶を整理するという意味もある。別に野球殿堂博物館というのがあり、「殿堂入り」の人たちの名簿を補完する役割もあると思う。清原氏の現役時代の優れた成績は、清原氏個人のプライドの在処の一つであり、名球会会員はその証のようなものである。それまで剥奪しようとするのは、非常に傲慢な行為である。それは、国家の歴史を捏造する行為に似て醜い。

個人の尊厳は、両親から受け継いだことやこれまでの人生で築いたことと不可分に存在すると思う。それは、自分が社会の中で生きて行く上での根拠になると思う。溺れたときには、浮き袋的な役割もするだろう。それまで奪い取ろうとする者は、人間として非常に醜い。 

補足:
1)成人は独立した社会構成員だという考えは、民主主義社会の根幹である。特定の成人を、予防的に拘束するのは、治安維持法と同様に社会の根幹を否定することになる。
2)日本の裏社会https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40 や北朝鮮関連の人間が覚せい剤を用いて資金を調達していると考えられる。それらについて解決できない日本の政府の責任が大きい。そのことについて、十分議論せず、清原氏を袋叩きして(それを楽しむというのは)非常に醜い行為であることを、この番組の出演者に気づいてほしかった。
3)この件で思い出すことがある。それは、スタップ細胞論文での小保方氏によるデータ改竄が明らかになり大騒ぎになったとき、早稲田大学が火の粉を振り払うように小保方氏の博士の資格を取り消したことである。これも、非常に見苦しい行為であった。早稲田大学や理研の幹部は何という下らない人材で構成されているのかと、そのとき思った。

2016年6月2日木曜日

小説「地獄変」の感想:既存解説文に対する異論

世の中に、芥川龍之介の小説「地獄変」についての感想文や解説文は多い。そのほとんどは、絵師良秀の芸術至上主義を描いたというものである。ウィキペディアにも、そのような解説が書かれている:「主人公である良秀の「芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない」姿勢が、芥川自身の芸術至上主義と絡めて論じられることが多く、発表当時から高い評価を得た。」https://ja.wikipedia.org/wiki/地獄変

しかしながら、このウィキペディアの記述はおかしい。絵師の良秀は、大殿の仕掛けた罠にはまっただけである。この絵師の芸術至上主義が主題だとする解釈は、たとえば http://novelu.com/jigokuhen/ にも書かれている。私はこの解釈に大きな違和感を持つ。芸術至上主義の解釈では、例えば「何故、絵を完成したのち良秀は自殺したのか?」という疑問には、答えられないと思う。芸術至上主義の絵師を想定するなら、http://okwave.jp/qa/q2624371.html にあるように、「自殺は、その絵以上の作品を今後描けそうにないと悟ったからだろう」程度のことしか言えないだろう(補足1)。

地獄変では語り手として、大殿に仕えているある世俗的な人間を想定している。大殿の人物評などに明らかな嘘が多く、それを本当だと信じると訳がわからなくなる。例えば、語り手が怪しい声などを聞いて、(絵師の娘が可愛がる)猿に曵かれて現場に近づいたとき、娘が逃げて飛び出てくる場面がある。あのとき、語り手は絵師良秀の娘の部屋に忍び込んだ大殿の姿を見た筈であるが、誤摩化す様な表現が使われている。その語り手の設定に気付くことで、堀川の大殿が表向き善人ぶっていても、影では何でもできる恐ろしい人間であることがわかる。作者はこの場面を入れたのは、良秀の娘を篭の中に入れて焼き殺す動機を示すためであると考えられる。

  絵師は天才的であるがプライドが高く、大殿であっても安易に諂うことがない。狡猾な大殿が仕掛けた絵師に対する悪巧みは、地獄変の絵の作成を命じるところから、全て計画されていたと見るべきである。(補足2)その場面までの語りにも、ごまかしが多く含まれており、真実を知る立場で語っているという設定ではないと思う。 

娘を篭の中に見たときに娘の命を助けてくれと哀願することは、既に多くの犠牲を強いていることもあり、プライドの高い絵師には出来ないだろう。もちろん哀願したとしても、大殿はその行為を中止しないことも篭の中の娘を見た瞬間に理解しただろう。娘を焼かれた絵師に出来る仕返しは、鬼気迫る絵を仕上げることである。それは、実際に“地獄”を見た良秀なら、絵筆が勝手に動くくらいのことだろう。

結果として、命乞いすることもなく名作を仕上げたことで、大殿との男の闘いに勝ったと言える。しかし、結果として娘の命を犠牲にしてしまったことは、自分の存在そのものの否定となった。人間であるが故の芸術であり、芸術が人間以上である筈がない。絵師は、大殿の悪巧みにより、結果として望むべくもない後者の関係を選択してしまったので、自殺するしか道が残されていなかったである。(補足3)そしてその自殺が、絵師が芸術家である前に人間であった証明である。 

絵師良秀が大殿にも安易に諂うことがなかったのは、二人は絵画という一点で対等の関係にあり得たということだと思う。この物語は、その一点の両側で、激しい男同志の戦いを描いたのだと思う。(補足4)しかし、戦いの場は、その一点を除いては主人と使用人という大きく非対称な場であったので、勝ち負けとは逆に、絵師良秀にとって悲劇的な結果に終わったのだと思う。 

この文章のエッセンスは、すでに以下のサイトに載せている。

http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/blog-post_17.html そこでは、「小説の中の語り手が果たしてその小説の中での真実を語るかどうか」について、三島由紀夫の「金閣寺」の語り手である主人公と地獄変の語り手を取り上げて論じた。本文は、その地獄変についての解釈を独立させたものである。

尚、芥川龍之介の藪の中についての感想(謎解き)について、その後書きました。詳しくは:http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_14.html(2018/1/21追記)

補足:
1)著者である芥川龍之介の自殺と絡めているのだろう。しかし、「芥川は自殺直前にそのような名作をのこしただろうか?」という疑問が、この回答者には浮かばないのだろうか。
2)殿様や王に暴君が多いのは、歴史書に記載されている通りである。自分を受け入れなかった女性を火炙りにするのは堀川の大殿だけではない。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6202894
3)ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したロマン主義フランス文学の大河小説「レミゼラブル」を原作にした同名の映画をみたことがある。地獄変の絵師の自殺を考えたとき、その映画の最後の場面を思い出した。主人公ジャンバルジャンを追い続けた刑事ジャヴェールが、ジャンバルジャンに掛けた手錠を外して、自分は海に身を投げる場面である。ジャヴェールは優秀な刑事であったが、ジャンバルジャンを追い続けたことが「人間として意味がなかった」ことが分かり、自分のこれまでの人生が虚しいものであったと気づいたからである。
4)男(あるいは人間一般)を自分の命を捨ててまで動くように仕向けることができるのは、怒りの感情である。