世の中に、芥川龍之介の小説「地獄変」についての感想文や解説文は多い。そのほとんどは、絵師良秀の芸術至上主義を描いたというものである。ウィキペディアにも、そのような解説が書かれている:「主人公である良秀の「芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない」姿勢が、芥川自身の芸術至上主義と絡めて論じられることが多く、発表当時から高い評価を得た。」https://ja.wikipedia.org/wiki/地獄変
しかしながら、このウィキペディアの記述はおかしい。絵師の良秀は、大殿の仕掛けた罠にはまっただけである。この絵師の芸術至上主義が主題だとする解釈は、たとえば http://novelu.com/jigokuhen/ にも書かれている。私はこの解釈に大きな違和感を持つ。芸術至上主義の解釈では、例えば「何故、絵を完成したのち良秀は自殺したのか?」という疑問には、答えられないと思う。芸術至上主義の絵師を想定するなら、http://okwave.jp/qa/q2624371.html にあるように、「自殺は、その絵以上の作品を今後描けそうにないと悟ったからだろう」程度のことしか言えないだろう(補足1)。
地獄変では語り手として、大殿に仕えているある世俗的な人間を想定している。大殿の人物評などに明らかな嘘が多く、それを本当だと信じると訳がわからなくなる。例えば、語り手が怪しい声などを聞いて、(絵師の娘が可愛がる)猿に曵かれて現場に近づいたとき、娘が逃げて飛び出てくる場面がある。あのとき、語り手は絵師良秀の娘の部屋に忍び込んだ大殿の姿を見た筈であるが、誤摩化す様な表現が使われている。その語り手の設定に気付くことで、堀川の大殿が表向き善人ぶっていても、影では何でもできる恐ろしい人間であることがわかる。作者はこの場面を入れたのは、良秀の娘を篭の中に入れて焼き殺す動機を示すためであると考えられる。
絵師は天才的であるがプライドが高く、大殿であっても安易に諂うことがない。狡猾な大殿が仕掛けた絵師に対する悪巧みは、地獄変の絵の作成を命じるところから、全て計画されていたと見るべきである。(補足2)その場面までの語りにも、ごまかしが多く含まれており、真実を知る立場で語っているという設定ではないと思う。
娘を篭の中に見たときに娘の命を助けてくれと哀願することは、既に多くの犠牲を強いていることもあり、プライドの高い絵師には出来ないだろう。もちろん哀願したとしても、大殿はその行為を中止しないことも篭の中の娘を見た瞬間に理解しただろう。娘を焼かれた絵師に出来る仕返しは、鬼気迫る絵を仕上げることである。それは、実際に“地獄”を見た良秀なら、絵筆が勝手に動くくらいのことだろう。
結果として、命乞いすることもなく名作を仕上げたことで、大殿との男の闘いに勝ったと言える。しかし、結果として娘の命を犠牲にしてしまったことは、自分の存在そのものの否定となった。人間であるが故の芸術であり、芸術が人間以上である筈がない。絵師は、大殿の悪巧みにより、結果として望むべくもない後者の関係を選択してしまったので、自殺するしか道が残されていなかったである。(補足3)そしてその自殺が、絵師が芸術家である前に人間であった証明である。
絵師良秀が大殿にも安易に諂うことがなかったのは、二人は絵画という一点で対等の関係にあり得たということだと思う。この物語は、その一点の両側で、激しい男同志の戦いを描いたのだと思う。(補足4)しかし、戦いの場は、その一点を除いては主人と使用人という大きく非対称な場であったので、勝ち負けとは逆に、絵師良秀にとって悲劇的な結果に終わったのだと思う。
この文章のエッセンスは、すでに以下のサイトに載せている。
http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/blog-post_17.html
そこでは、「小説の中の語り手が果たしてその小説の中での真実を語るかどうか」について、三島由紀夫の「金閣寺」の語り手である主人公と地獄変の語り手を取り上げて論じた。本文は、その地獄変についての解釈を独立させたものである。
尚、芥川龍之介の藪の中についての感想(謎解き)について、その後書きました。詳しくは:http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_14.html(2018/1/21追記)
補足:
1)著者である芥川龍之介の自殺と絡めているのだろう。しかし、「芥川は自殺直前にそのような名作をのこしただろうか?」という疑問が、この回答者には浮かばないのだろうか。
2)殿様や王に暴君が多いのは、歴史書に記載されている通りである。自分を受け入れなかった女性を火炙りにするのは堀川の大殿だけではない。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6202894
3)ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したロマン主義フランス文学の大河小説「レミゼラブル」を原作にした同名の映画をみたことがある。地獄変の絵師の自殺を考えたとき、その映画の最後の場面を思い出した。主人公ジャンバルジャンを追い続けた刑事ジャヴェールが、ジャンバルジャンに掛けた手錠を外して、自分は海に身を投げる場面である。ジャヴェールは優秀な刑事であったが、ジャンバルジャンを追い続けたことが「人間として意味がなかった」ことが分かり、自分のこれまでの人生が虚しいものであったと気づいたからである。
4)男(あるいは人間一般)を自分の命を捨ててまで動くように仕向けることができるのは、怒りの感情である。
どうも仰る事に偏見が強すぎる気がしますね…。当り前のように大殿様の非道を決め付けておられるようですが、それほど語り手の申し分に不信任を抱かれますか?
返信削除仮に現在進行形で先の見えない話とすれば、仕える主人への盲信からくる希望的観測も有り得るにしても、この話は既に完了した後日談なわけです。しかも遥かに過去の話のように思われます。そこに至って幾ら奉公人とは云え、ここまではっきり言い切って断言している以上、大殿様の潔白は動かぬ既成事実なのです。その事は冷静に素直に読めば解るはずですよ。どこを読んでも彼の不正を裏付ける言及はありません。つまりこの話は始めから何もかも決着が付いて答えが出ているんです。
ただこの作品の面白いところは作者が意図的に読者の凡俗心をあおって邪推させるように仕向けている点にあります。語り手の巧妙な語り口に乗せられて盲目的に大殿様を奸物に仕立て上げる。そして憎悪を向けるようになる。もっとはっきり言えば良秀の娘を屋敷内で襲った存在は、大殿様でなくてはならないわけです。こうなると見事に作者の思うツボに嵌った世俗的人間ということです。裏を返せば大殿様という人物は読者自身の自己投影なんですな。「俺なら娘に手を出すだろう」というスケベ根性ですね。私などはこの作者の狙いにピンと来たので心して読めば、大殿様は高潔な聖人君子としか映りませんよ。つまり作者が読者を試しているんですね。邪念をもって読むと大殿様は悪逆非道の暴君となり、健全な心で読むと清廉潔白の士となる。実に面白いですね。
あとこの作品ではやたらとラストシーンの残虐性が取り沙汰されますが、これを実際に起こった出来事と考えるのはナンセンスでしょう。大体考えても見て下さいよ、幾ら何でも人間があんなエゲツナイ事できるわけないじゃないですか。つまりこれは訓話なんですよ。後世の人々に戒める抽象的、象徴的次元のお話なんです。ですから残酷性、非道性などを殊更に掘り下げるのは野暮というものです。以上、長文失礼致しました。