1)94歳のアウシュビッツ元看守に禁錮5年の判決
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160618/k10010560651000.html
について、昨年この裁判が報じられた記事を引用し、ドイツ人は卑怯だと書いた(昨日再度リファー)。その理由は、自分たちが選んだ政権により、自分たちの納めた税金を用いて行われた行為(ナチによるホロコースト)でありながら、自分たちは素知らぬ顏をするために、同胞である直接関係のない守衛を70年後の今になって生贄として差し出したからである。
しかし、今回再度この件を考えてみて、生贄を受け取る側のことも考えなくてはいけないと思うに至った。つまり、それを受け取る側が、それほどドイツ人一般を破滅への縁側に立たせたのだと考えるべきだろう。ドイツもこのような裁判は理不尽であると百も承知だろう。しかし、それ以外に生き残る手段が無かったとしたなら、あの卑怯な居直りも仕方がないのだろうと思うのである。
そのように考えると、見方が180度変わってしまう。何事も片方だけ、反作用だけ見て議論してはいけない。たとえ自分に見えなくても、作用なくして反作用はないのだから。我々日本も、ドイツの現実主義に学ぶべきかもしれない。
西欧諸国特にドイツの昨今の中国への接近は、この件と関係がありそうに思う。米国とそれを支配する勝者は、ドイツにあのような裁判を強いたのだから。そして、米国は内向きになりつつあり、逆に中国は外向きになりつつあるのだから、そう考えるのは当然かもしれない。
2)西欧のこの逞しい考え方には、歴史があるだろう。素人ではあるが、それを少し考えて、日本のとるべき道を考えてみた。
我々は言葉で考える。そして、その「言葉は世界に一致する」と聖書には書かれている(補足1)。しかし、聖書に長く付き合った西欧の人々は、同時に哲学する人々でもある。そして19世紀生まれの人の言葉には、現実とは決して言葉で語り得るものではないと書かれている(補足2)。それでも尚、人は現実を言葉で語るしかなく、それほど知的でない人や敗者は「この世は理不尽」という言葉を吐く。しかしそれは、自然は不可解と言うのとほとんど同じである。現実を理解し、現実に近づくべきは自分であり、それが大人としての人間の態度である(補足3)。
日本の政治評論家の一部に歴史家の様な顔をし、過去の日本の歴史を肯定する視点に強く拘っている人たちがいる。彼らは、「現時点の世界(現実)を見ないでおこう、理不尽だと叫ぼう」と国民に向かって言う(補足4)。しかしその方向は、国を滅ぼす道ではないかと危惧する。ドイツに学ぶべきはその点であり、メルケル首相が昨年安倍総理に進言したのは、ひょっとしてそのような意味のことではなかったのかと想像する。
歴史に真実などない(補足5)。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html 歴史は民族であれ国家であれ、勝ち残った者が書いた人類の物語である。その物語の中に将来に亘って残ることが善であり、過去の自分たちが勝手に描いた“善”に拘り、滅びの道を進むのは愚である。滅びの場面で、善の道に向かって「理不尽」とめめしく叫ぶのは、そのような民族の最後の虚しい権利だろう。
現実主義においては、中国はドイツなど西欧諸国の先輩かもしれない。日中国交回復のとき、周恩来が田中角栄に送った色紙の「言必信行必果」は、論語で三流人間のとるべき態度として記述された言葉である。この論語とそのような言葉を日本の総理大臣に送るという現実主義が、中国の政治である。http://www.chichi-yasuoka.com/episode06.html
日本は、最初に引用したドイツの裁判を深く議論すべきであると思う。
補足:
1)ヨハネによる福音書の冒頭
2)言葉と現実の違いを論じた西洋の哲学者には、フェルナンド・ソシュールや最近のジャック・ラカンなどがいる。(素人なので、詳しくは哲学書を参照してください。)
3)「言うは易く行うは難し」ではある。
4)これは日本では右派と呼ばれる人々。例えば、桜井よしこさんの意見についてのコメントを書いたことがある。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41369336.html 歴史家はそれぞれ独自の見解を発表すれば良いが、政治家や政治評論家は現実主義でなくてはならないと思う。
5)真実を言葉を用いて記述することは不可能である。歴史は出来事(不完全な独自の記述)を時系列で繋ぐ物語である。それ故、歴史は科学ではなく文学である。(追加)
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