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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

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2016年6月23日木曜日

東山彰良著「流」(昨年度直木賞)の感想

昨年の直木賞受賞作である表題の小説を読んだ。芥川賞の火花を読んだ時の印象と似ているのだが、描かれた人と人の関係や人の行動は濃く且つ激しく、まるで絵の具を大量に使った油絵のような感じを受けた。流し読みのような読み方だったが一応全部読み、所々読み直してこの文章を書いた。

1)舞台は台湾であり、主人公、葉秋生一家は共産党軍に敗れた国民党とともに、大陸から1949年台湾に移住した。その時に一家を率いた主人公の祖父“葉尊麟”が、蒋介石の死去の年の1975年、何者かにより浴槽に沈められた形で殺された。祖父は主人公にとって大きな存在だったが、犯人の目星はつかず、警察は全くあてにならなかった。

当時17歳だった秋生は、その後の不良少年的な青年時代、陸軍の学校から軍隊生活、除隊後の会社員としての生活(日本と台湾を跨ぐ貿易関係の会社)、その間の二つの恋愛経験などを経て、25歳となる。話は主人公秋生の人生に関して進むが、その中心に祖父殺しの犯人探しが常に存在する。それは、中国本土から来た自分の正体(アイデンティティー)を探し出すことにもなるのである。

祖父の残した写真と、大陸から台湾に逃れる時の恩人(“馬大軍”)から一族に(李爺さん)に送られた写真、更に、ヤクザと友人“趙戦雄”との揉め事に秋生が巻き込まれた時に、救ってくれた義理の叔父“宇文”のその時の言葉や態度などから、その義理の叔父が祖父を殺したらしいと思われた。そこで、中国に出かけて馬大軍の助けで、祖父と 宇叔父の関係を確かめようとする。馬爺爺(馬爺さん)は、初対面ではあるが秋生を本当の孫のように大切にし、助けた(補足1)。

探し当てた義理の叔父である宇文は、共産側の住民数十名と供に秋生の祖父らに生き埋めにされた“王克強”の息子“王覚”だった。そして、王覚がその時の国民党側遊撃隊隊長“許二虎”一家を報復で皆殺しにした際、駆けつけた祖父から瓶の中に身を隠していた所を、許一家の長男と勘違いされて台湾に連れられ、葉家の養子となったのである。全てが明らかになったとき、村の勇者の“字叔父”は、村民を制止して当地では極悪人の孫となった秋生と二人だけで外を歩くことにする。

主人公秋生の足元には、宇叔父の頭を打ち砕くに十分な石ころもあった。しかし、対峙する二人の間の過去の話は、殺す方と殺される方に位置していることが、当事者の責任の外にあると感じられるものだった。祖父と字叔父ら、国民党と共産党両勢力の間の凄惨な出来事は、供に大きな歴史の流れ(渦)の中に飲み込まれたことの結果であった。

祖父が養子の字叔父に殺されるとき、その様な時が来ることを自覚していた様だ。何故なら、大きな抵抗の印が元々屈強なる祖父の体になかったからである。(補足2)同様に、字叔父も祖父と同じ結末を予想していた様だった。秋生はその壮絶な復讐の連鎖を終わるには、石を 宇叔父の頭に打ち落とすのが美しいと考えたが、その瞬間に字叔父の甥が祖父の持っていたピストルで秋生を撃った。字叔父は、秋生を守ろうと大声を出して止める一方、それを自分の行為として公安に届け、復讐の連鎖に終止符を打った。

2)冒頭に書いたように、濃い絵の具で書いた絵画のような感じを受けたのは、現在の中国と日本の間に存在する大きな文化の違いにも原因があるように思う。そして、その違いは、戦後の日本では生と死を近くに感じることがなくなったことに関係すると思う。それ故、最近の日本人は淡い水彩画のような人生を自然なものに感じるのだと思う(補足3)。

広大な大陸の中で生き残るには、強い味方を多く作ることが第一である。しかし、味方を定義するのは唯一敵であり、論理や真実は脇役に過ぎない。そして内戦時には、国民党か共産党かのどちらかの人脈に根を張ることが、生き残る手段であった。どちらでもよく、イデオロギーなど両軍につけられた小さなラベルにすぎなかったのだろう。

この横のネットワークは、縦のネットワークを用いてホッチキスで止めるようにつなぎ止めなければならない。祖父の死にこだわる主人公秋生の姿は、正にそれを証明していると思う。中国の言葉に、伝宗接代というのがある。それは代々家を継ぐことであり、それができないことは最大の親不孝となっている(補足4)。この人間関係は、生きる上で頼りになる一方、荒廃した世相の中では報復連鎖の原因ともなる。

主人公が軍の学校で、長期間登校しなかった罰則として独房に入れられ、看守から激しい虐待を受ける。それへの絶対服従を通して、自分の持っていた筈の自尊心が如何に軽いものだったか思い知るのである。個人の軽さと人間のネットワークの重みを教える話である。現代の日本人は、この考え方を完全に忘れているだろう(補足5)。

人間にとって今日1日の第一の目標は、生き残ることである。今の我々日本人は、それは既に約束されていると安易に仮定し、忘れがちである。しかし、安全に寄与しているらしい壁は視界を遮る形で存在する様だが、死は、本当はすぐ近くに存在するかもしれないのである。その壁は、強い経済や国際協調かもしれないし、進んだ医療や日米安保条約かもしれない。しかし、それらは看守からのいじめで初めて思い知る軽い自尊心と同じく、軽く薄い壁であり、葉一家を守る“お狐様”よりも当てにならないかもしれない(補足6)。

自分に対する誇りや将来への夢、家族の健康に家庭の幸せ、美しい芸術に楽しい休日。それらが陽なら、背中合わせに存在する陰を全く意識しないものに、それらを受ける資格はないと思う。この本は、いろんなことを我々日本人に教えてくれるのではないだろうか。全体的に非常に刺激的で深い内容をもった優れた小説だと思った。

補足:

1)この濃い人間関係が、本小説の背景として存在する。
2)この綿密な葉一家を皆殺しにするという恐ろしい計画が頓挫したのは、養父(主人公の祖父)が王一家を殺したことは私憤によるのではなく、歴史の所為だと知ったからである。養父はそれを悔いており、王家の息子と承知して字叔父を育てたらしいことを、養父が大事に保管していた王一家の写真を見て知ったのである。
なお、東山彰良の「流」の書評として例えば以下のサイトがある: http://h-idayu.hateblo.jp/entry/book-review-higasiyama-akira-ryu
3)昨今の健康ブームは、死が遠くに存在することを示している。死を日常的に背中に感じるとき、人は健康食品など考えない。
4)王覚が20年以上かけて主人公の祖父殺害を実行した理由は、どうしても生きて中国に帰り、王家を再興しなければならないからであった。王覚は、「不孝有三、無後為大」(不孝に三つあり、後取りのないのが最大の不孝である)であり、上記のように中国人にとって傳宗接代(代々血統を継ぐ)は何よりも大事なのであると説明した。
 この鍵となる考えは、それほどのものなのか、そして現在の中国に生きているのかがこの小説の評価には重要だと思う。それは、中国へ取材に行かなければわからないだろう。これは、この小説に若干の疑問をもったポイントでもある。
5)自分の命を犠牲にしてまで守るべき国家があるのか? もし、ある国ではこの考えが全く意味なく、他の国で重要な意味を持つのなら、前者の国も民族も自然に滅びるだろう。日本人はこの考えを再度考えるべきであると思う。
6)お狐様の信仰、友人が宝くじを当てたこと、幽霊との遭遇、コックリさんでの占いなどが、この小説で辻褄合わせのためか使われている。あまり多くこの種の技を消極的な理由で用いるのは良くないと思う。もちろん、一定の蓋然性を持つのであるのなら文句はないが。

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