現在の政党を保守とリベラルという区分で議論することが多い。しかし、保守とリベラルの定義を明確にした上での議論は少ない。昨日の読売新聞の論点スペシャルに、“日本の「保守」「リベラル」とは”という表題で二人の学者の方の意見をまとめた記事が掲載されている。
1)東大教授で法哲学が專門の井上達夫氏は以下のような定義をしている。
自国の伝統的な宗教や文化を守るために個人の自由や権利を制約するのが保守で、政教分離や表現の自由など市民的・政治的人権を強調するのがリベラルである。
日本の政治では、
保守の自民党は、靖国神社公式参拝、選択的夫婦別姓反対、特定秘密保護法、テロ等準備罪などに見られるように、伝統保持や秩序維持のために市民的・政治的人権をある程度制限する。それを批判するのが立憲民主以下の「リベラル野党」である。
「」付きなのは、真のリベラルが日本に無いからで、その理念を定義している。リベラリズムの根本原理は、対立する人々の公正な共生の枠組みを為す正義の理念にある。
もう一人の学者は京都大社会思想史が専攻の名誉教授、佐伯啓思氏である。佐伯氏も具体的に日本の政治における昭和からの動きを説明している。冒頭に、保守とリベラルという対決の図式で日本の政治は語られてきた。しかし今、この対立は意味を失っている。(その一つの要因なのだろう、)日本には本当の意味での保守政党がない。せめてもっと大きな枠組みで憲法や安全保障について議論がしたい。
そのように二人の学者は言っている。(この記事は、記者が聞き取りまとめたものだろう。従って、二人の学者の考えが、正しく伝達されているかには多少疑問が残る。)
2)どうやら、日本政治の対立の図式を「保守とリベラル」という枠組みで考えるのは困難な様である。自民党=保守と二人の方も考えておられるが、自民党を英語で言うと、Liberal Democratic Partyである。つまり、自民党はリベラルを名乗っている。日本に真の保守はないという佐伯氏の指摘は、保守と思われている党の党名から(1955年から)既に明らかである。
保守とは何かというと、引き合いに出されるのが、保守主義の父と言われるエドモンド・バークの考えである。私が理解した「保守」は、社会を構成している「現在の人の知恵や知識」よりも、過去から現在まで其処で生きた遥かに多くの人により作られた「現在の社会」を重視する立場である。
そこでは人が社会を作って生きてきた間に出来た自然のルールを重視する。日本では、江戸末期に外国の影響を強く受け、暫定的に国民国家体制が急いで作られた。更に、海外進出と国家の背骨まで破戒された先の戦争での敗戦あと、10年して出来たのが自由民主党である。その経緯を考えれば、日本に本当の保守など存在するわけがない。有史以来日本に自然と根付いた慣習や法律(コモン・ロー)などは全て、明治から昭和の敗戦で完全に破壊されたのである。
つまり、日本の政治は急ごしらえの国民国家と、それによる大きな歩幅での歩みと転倒を経験したあと、未だに混乱の中にあると思う。日本の政治が、本来の保守やそれに対立するリベラルを形成するには、幕末からの外国の強い影響と日本のそれによる変化を出来るだけ事実に基いて評価及び消化吸収して、独立国日本を取り戻すのが第一に必要なことである。
しかし、現在の政権と政府は、それを拒否している。それは、その間日本を指揮した人たちの後裔が未だに日本を率いいているからなのか、誤りを指摘するのは日本の伝統に反することなのか、わからない。少なくとも、日本は今尚民主国家ではない。民は口をきかないし、口をきかないのが美徳の国なのだから。
井上氏は上記のように、「保守の自民党は、靖国神社公式参拝、選択的夫婦別姓反対、特定秘密保護法、テロ等準備罪などに見られるように、伝統保持や秩序維持のために市民的・政治的人権をある程度制限する」と書いている。しかし、靖国神社や国家神道など、江戸時代の伝統的な日本には無かったのであり、それを支持する政党など従って保守でもなんでもない。靖国は、混乱の中での建造物に過ぎないと私は思う。
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