今日は、宗教をどう考えるかについて、現在の考え方をまとめてみました。有限の知識を自分なりに活用して、一つの回答を出しているつもりです。(補足1)間違いを指摘してくださる方があれば、批判をお願いします。
1)宗教は、人が生きる道を見つけるための一般的な考え方(補足2)として創造されたと思う。その考え方は、人がどのような情況にあり、どこで人生の袋小路に入り込むかにより異る。宗教が対象とするのは、個人の場合もあるが、一定の土地に住む一群の人、つまり部族も対象にするのが普通である。勿論、人間が社会を作って生きる以上、比重に差があっても個人と集団の両方を対象とするのは、当然である。
自然の中で命には、一般にいろんな試練が待ち受けている。考えることを運命づけられた人間は、その生をどう考えれば良いのだろうか。具体的には、“死の恐怖”をどう克服するかとか、有限な食料と有限な自分の能力という拘束された条件をどう生きるかという類の問題への回答が無くては生きるのは困難になる。
その問題に対して、仏教は“色即是空”という答えを用意したと思う。形あるものは本質のない虚しいものであるという意味である。従って、形あるものに拘泥してはならない。自分の生もその一つである。本質としての精神の救いとは、形あるものへの拘泥からの解放である。滅びこそ救いであるとして、死に対する恐怖を克服する。つまり、入滅とは涅槃の境地であり、それは悟りを開いた人の死である。
形あるものは本質的でないが、本質的な永遠の存在は否定できない。それを否定してしまえば、混沌と蒙昧の中に落ちるだけだからである。もし人に精神という本質があるのなら、他の形あるものにも類似のもの、つまり本質的で永続的なものが有る筈だと考えるのは不思議ではない。
2)人よりも、人に生きる場、そして幸せと試練とを与えてくれる自然は、もっと偉大で本質的な存在である筈だと考え、それを崇拝するのがアニミズムだろう。その一つが、日本の神道である。神道では、白山や御嶽山などの偉大な自然を神として崇める。神道では他に、あらゆるものが神となる。大きな杉の木であったり、巨大な熊であったり、岩であったりする。
大きな自然災害が頻繁に発生する日本では、神道を信じている人が殆どであり、それが日本文化の基礎であると思う。この国では、言葉にも霊が宿るので、“不吉な言葉”はなるべく避ける方が無難であると、無意識に信じている人が殆どである。(補足3)無意識に信じているため、特別に他の宗教を持たない日本人は得てして、自分は無宗教だと考えがちだが、決してそうではない。
仏教とアニミズムの発生の順番は、アニミズムが先であると思うが、説明の都合で順番を逆に論じた。因みに、アニミズムと仏教を統一したような文学が、深沢七郎の名作「楢山節考」である。これについては、既に書いた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html
3)自然やその一部である自分自身に対峙する宗教として、アニミズムや仏教を例として上に説明したつもりである。アニミズムは最も古い形の宗教であるというのは宗教学者の一致した考えのようである。一方、有史後に生じた仏教の誕生と普及には、一定の条件があり、それに合致する地域は限られるだろう。つまり、生きる上での主な問題が、自分と家族の生命維持、およびそれらの死との対峙である場合である。その四苦八苦(補足4)のみと対峙して生きるのは、世界史的には比較的恵まれた地域の人たちだろう。
例えば、農業技術などの発展と伴に、より大きなグループを作るようになると、小さな島、或いは移動や移住が比較的困難な場所では、そのグループが地域を満たすことになり、その段階でグループ外の部族や民族による日常的な襲撃は無くなる。従って、部族や民族の団結を目的とした宗教はそれらの地域では発生しなかっただろう。
一方、生きる上での一番の問題が、匪賊や他民族の襲撃である地域では、別のタイプの宗教が必要だろう。それは、自分の属する部族や民族の団結に寄与するタイプの宗教である。
広い大陸では、多少グループが大きくなったとしても他地域からの侵略略奪行為が大規模且つ一層悲惨な形になるだけで、完全に自由になる方法は、侵略者の殲滅以外にはあり得ない。そのような地域では、一人の偉大なリーダーによりその民族を束ねるための宗教が発生しただろう。
ユダヤ教がそのタイプの代表だろうと思う。大きなグループ(民族)が厳しい環境に置かれたことが、偉大なリーダーを生むことに繋がったのだろう。大きなグループであったことの証として、一般民に与えた指針が今尚類を見ないほどの偉大な聖典となっている。他宗教の信者でも、創世記の創造神話が神の啓示により書かれたと言われれば、それをなかなか否定できないだろう。(勿論、それ以前の神話や伝承に似たものがあるかもしれないが、私はその知識に欠けるので、何とも言えない。)
4)原始時代では、戦争は他の部族を殺すことであっただろう。しかし時代が進み世界史の主人公が、部族から民族、そしてそれらを超えた国家という単位になった時には、戦争の目的は他の国家を支配下に置くことに変質した。つまり、隣接部族以外には、元々不倶戴天の敵という関係では無いから、憎しみによる殲滅よりも、利益の為の支配に変質して行ったと思うのである。
そのような時代になり、支配者と被支配者の関係のなかで、被支配者であっても尊厳を保ち強く生きることを示したのがキリスト教ではないだろうか。そこで、「爾の敵を愛せよ」という“昇華された愛”が始めて示されたのだろう。この当たりについては、パウロについての解説書(補足4)を読んでから、再度考えてみたい。
因みに、日本の皇室の起源と繋がる“伊勢神道”は、オリジナルの神道を太陽神である天照大神とその子孫という神格化した英雄とを信仰する宗教に変質させたものだと思う。また、伊勢神道から生じたのが、国家神道であり靖国神社だろう。しかし、伊勢神道までは日本民族固有の宗教(補足5)だと考えても、国家神道と靖国神社とは一線を画したい。勿論、両者は非常に近いのだが、皇室は日本のシンボルであり、オリジナルな日本民族・文化の範囲内だが、靖国神社は江戸末期以降の過ちの日本史の産物であり、受け入れる必要はない。(編集18時30分)
補足:
1)知識ばかり集めて、結局多論併記型の文章しか書かない類の評論家は、道具ばかり集めて何も独創性のある研究が出来ない研究者と同じである。
2)個人の具体的な問題を対象にしていては、人生相談のファイルの様になってしまう。一般的というのは、具体的な問題に対処する考え方という意味である。
3)「言霊」というと、そんな馬鹿なと言下に否定する人が多い。それほど“深い信仰”なのである。何故、語呂合わせで日柄を決めるのですか?街角の至る所になる「ポイ捨て追放」とか、「美しい街〇〇市」とかいう看板は、何の為にあるのですか?と言っても、尚わからないだろう。
政治の分野では言霊も深刻な影響をもたらしている。現在のGHP民政局が作った憲法に「平和憲法」という名前をつけた人の作戦通り、日本は60年間憲法改正が出来なかったのである。
4)キリスト教を考える鍵は、聖書とパウロの生涯だろう。ユダヤの民を支配していたローマまで、信徒にしてしまったプロセスについて知りたいと思う。パウロと彼によるキリスト教(布教)を批判したのが、ニーチェ著の「アンチクリスト」である。
5)オリジナルな神道とは別である。オリジナルな神道は個人的なもので、朝、太陽を拝み手を合わせる老人の姿に見ることができる。伊勢神道は、お伊勢参りと皇室崇拝の日本の伝統であり、民族的なものである。
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