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2019年11月4日月曜日

乳幼児の集団保育の危険性などについて:乳幼児の段階でヒトという動物は人間になる

昨年の11月4日の本サイトにおけるブログ記事は、「人の幼児期が長いことと、言葉と道徳とを学ぶことの関係について」であった。自分の書いた記事に、なるほどと改めて納得し、新しい角度からリブログすることを思いついた。昨年の記事の内容を用いて、表題の視点から議論する。

1)人にとって乳幼児期は、人間として生きる為の基礎を学ぶ最も重要な時期だと思う。丁度一年前の記事では、他の動物に比較して非常に長い人の幼児期を考え、「言葉を話し、言葉を信じる動物」として育つ為にその期間が必要である結論した。(補足1)

補足1に引用の記事(https://copel.co.jp/article/childhood-ability-statistics/)に、「乳幼児は、統計パターンに基づいて学習する」という話がある。これは非常に重要な指摘である。乳幼児は、統計の標本と母集団の関係を理解していて、自分の統計分析に基づいて、周囲の世界についての理論を組み立てているというのである。カリフォルニア大バークレーのアリソンという先生の考えだという。

一般に、周囲と自分の関係を知るには、原点の自分を明確に確認し、その自分を物差しにして他を測る、つまり、認識する。しかし、自分の存在に気づいた時には全くの白紙状態であるから、世界の概略を理解するのは容易ではないだろう。その理解の前半は、周囲特に母親や家族との関係から帰納的に、自分を知ることに費やされるだろう。(補足2)

つまり、自分は母に依存し、母は自分を無二の存在として大事にしてくれる存在であることを、多くの体験から帰納的に習得する。それが、乳児が世界を認識する第一歩である。父親や兄弟姉妹がその周囲に存在するが、母から受ける体験とはかなり統計的に異なる。それが、「自分、自分に対峙する者、そして、第三者」という形式で世界を理解する第一歩だと思う。

世界を以上のように帰納的に知るということは、上記アリソン教授の理論、乳児は「統計分析により周囲を知る能力を持つ」と同じであり、白紙の乳児にとっては当たり前のことだと私は思う。

アリソン教授の理論を紹介したブログ記事は、幼児教室コペルホームという企業のものであるが、その記事で導いている「多くの情報に触れさせることが、より高い成長のために重要だ」という結論は、必ずしも真とは言えないだろう。むしろ、統計処理をして、真実を抽出する時、あまり困難を感じない安定な環境が必要だろう。

もし人を信じ、人としての情を豊かに持つ人間を育てるのなら、乳児期には保育園による育児ではなく、基礎がしっかりした家庭で母親に直接育てられるのが大事だということになるだろう。

2)昨年の記事に書いたことを一言でいうと、「乳幼児が言葉を学ぶことは、世界を理解することである」と言えるだろう。そして前のセクションで議論したように、その世界のモデルを自分の中に創り出すために統計処理的思考を用いているということになる。

例えば、「母」という言葉を理解するには、周囲の人を個別認識し、それぞれの自分にたいする接し方を観察して、(自分を殊の外大事にしてくれる)異質な一人を抽出し、それが常に同じ人であることを知らなければならない。更に、他の子供にも、自分の母とは違う個人だが同じような一人が存在することを知るようになる。そして、新しい概念として「母」を抽象化するのである。これらの作業は全て、頭脳が自分の目前の画像と自分に及ぶ(他人の)作用を、記憶領域に積み重ね、統計的な処理をして習得される。

この幼児期の作業で、言葉の意味と信憑性を、論理的思考により判断するのではない。 ただ、信じることを前提にその言葉を聞くのである。人が「止まれ」と言えば、それを聞いた人は先ず止まるだろう。その後長じて、「嘘」に接するようになる。嘘が社会生活の上で一定の効果を持つのは、その嘘の言葉を人が信じるからである。

聞いた言葉をそのまま信じるという習性が全く出来ていない場合、嘘にも引っかからない。全く嘘に引っかからないヒトは、全く真実も知らないヒトである。しかし、それは言葉を理解しない野生のヒトに留まっているということである。

従って、乳幼児期の段階から、周囲からの情報に嘘が交じると、子供は言葉を習得できにくくなる筈である。乳児期には、なるべく母親とその家族が育てるべきである。まわりの人は皆、その乳幼児の味方であるという情況で聞いた言葉と自分の体験から、言語の習得ができる。そして幼児は、言葉を学習すると同時に“言葉を信じる性質”を獲得するのである。

人の乳幼児の期間が長いのは、言葉の創造とそれを用いて周囲と情報交換することに、長時間を要するからだろう。「言語の創造」は、外国語を学ぶのとは、全く異なる次元のことである。

尚、道徳もこの時期に同時に習得されるだろう。たとえば、「駄々をこねる」のは、道徳を学ぶ一環である。それに対する、親の反応を見ることで、幼児は何かを要求する際の限度などを学ぶだろう。道徳とは、個人が要求できる範囲を自覚することであり、この幼児期に習得される。

3)昨年のブログ記事の言葉と、議論の延長

以上、幼児教育の大切さ、特に、母親と家庭が言葉と道徳の学習大事であることが理解できるだろう。現在、男女平等や女性の自立が議論されている。また、それを助ける保育施設の拡充が課題だと考えられている。心配なのは、その様な議論をする人たちは、人の言語習得や道徳学習などにとって非常に大事な幼児期を対象にしていることを、十分自覚しているかということである。

尚、今回の議論は、ダーウィンの進化論を仮定している。そして、言葉でのコミュニケーション能力のある人が、肉体的に丈夫な人よりも人間社会に適応できることを、適者生存の原理として仮定している。特別なスペシャリスト(例えば兵士や運動選手)の育成は、この記事の対象ではない。

やや禁句に近いことを言うと、豊かさと平等は、人の平均としての社会的能力を低下させる。また、男女が分業的に生きてきた過去の歴史を否定し、同じことを権利として主張することも同様である。

乳幼児は不満を泣き声で表現し、母親は愛情でそれに対応するが、母親が自動販売機的に泣き声というコインで、乳幼児の要求に応じるのでは、愛情という概念の抽出に失敗する可能性がある。社会の多様性、環境の多様性を理解し、それに対応する能力を育てるには、体験も年齢に応じて多様化しなくてはならない。

少年期には、その体験を先人の体験にまで延長するべきである。つまり、歴史教育が何よりも大事だろう。ユダヤ人の能力が高いのは、家庭レベルで聖典(聖書とタルムード)により歴史教育が成されることだろう。彼ら宗教(ヤハウェ神信仰)とは、民族の歴史教育なのだ。

西欧では、都市が城壁で囲まれていることは何故なのか? その事実を、どれだけの少年が学校で教わるだろうか? 廃仏毀釈が何故、明治の日本で行われたか? その議論を中学校で行ったのか?

重要な事実とそれに対する何故という疑問の提出、更に、それに対する議論が、日本の教育には欠けている。 先人の体験を追体験するには、現在の歴史教育には無駄が多いように思う。

補足:

1)下に引用の記事では、幼児の学習能力の高さについて解説している。そして、幼児期に多くの情報にふれさせることが、より高い成長のために重要だと結論している。 https://copel.co.jp/article/childhood-ability-statistics/

2)真実を抽出する方法として、演繹と帰納の二つがある。演繹とは、前提から論理的に次(の命題)に至る思考であり、帰納とは多くの現象から一つの事実を抽出する思考である。

補足2への蛇足: 複雑な系における未来の予測にも、同様の二つの方法があるだろう。私の乏しい知識、カルタゴの滅亡、クレタ文明の滅亡、19世紀のモリオリ族の滅亡などから、将来の日本の滅亡を予想するのも、帰納法的な思考による。(=>地政学)

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