差別は悪であるが、好き嫌いの表明は自由である
「差別」とは、一群の人たちを「区別」した上で、その区別とは無関係な場面において、感情的、経済的、或いはその他の冷遇をすることである。本文章は、「差別はどうして“悪”なのか?」という疑問に答えるのが主目的である。その際の重要なポイントは、差別を悪として議論の対象とするのは、宗教的場面を別にすれば、近代社会の公空間においてのみである。
1)善悪という概念:
善悪という概念は、人類が社会を形成する様になって初めて生まれた。つまり、善悪は社会が発生し、公的な空間が出来た後に生じた概念であり、個人の内部や完全に私的な関係においては善悪は無意味な概念である。
その後、人格神を持つ一神教において、善悪は私的な空間においても意味を持つようになった。これが一神教の特徴であり、それ以外の宗教との決定的な違いである。一神教を信じる方々を含めて議論する為には、社会的善悪と人格的善悪(補足1)とを区別することになる。そうすると、今回の話は社会的善悪についてと言うことになる。私は一神教の信者ではないので、後者を単に善悪と呼ぶ。
古来、人と人間という二つの言葉を区別して用いる場合、前者を動物としてのホモ・エレクトス(Homo erectus)の意味とし、後者を社会の中で生きる人の意味に用いる。善悪は人間を対象とした場合の概念であるが、厳密に個としての空間に閉じ込められた人には存在しない概念だということになる。(補足2)
私はここで何時も引用するのが、親鸞の教え、「人は誰でも、死の間際に“南無阿弥陀仏”と唱えるだけで、極楽往生をとげる事ができる」という言葉である。最後の瞬間、どのような人間も完全に個の空間に閉じ込められ、その空間とともに消滅する。
その時、善悪は全く無意味な概念となり、南無阿弥陀仏という念仏を最後に消滅する命は、その瞬間には無意味となった生前の悪行の記憶を放棄することが出来、阿弥陀仏を思う気持ちのままに消滅するのである。
それは鎌倉仏教には無かったものであり、比叡山の横川中堂を後にした親鸞は、この善悪という言葉に込められた社会の装置が、仏教の教えの通り本質的ではないことを知った上で、四苦に苦しむ衆生の救済のための宗教、浄土真宗を拓いたのだと思う。(補足3)
2)差別は、社会の存立を危うくする悪である
差別の悪は、他の悪と同様、社会をつくることによって発生し、その悪が蔓延することで社会の存続が危うくなる。
人間は社会を作ることによって、他の動物との生存競争に勝つようになった。そして、社会が時間とともに発展し、現在高度な文明により維持されるようになった。その結果、人間はより楽な生活が可能となり、人口も増加した。(補足4)
その結果、複雑化した社会の維持(発展)には、様々な人材を必要とするようになった。社会における適材適所の原則は、取り敢えず平等を人物評価の原点とし、外見や個人的趣味、一つや二つの評価ポイントでの優劣と待遇の判断を避けることが賢明だとする“道徳”が出来上あがった。
例えば、だれでも美人を好み、醜人を嫌う。それは人の生物的感覚の結果であり、人が動物ホモエ・レクトスである以上不可避である。しかし、その美人に扠したる能力がなく、その醜い人にまれに見る能力や知恵があれば、公的な空間では、つまり社会は、その醜い人を重用することで大きな利益を得る。
その結果、「外見で人物の判断をしてはならない」という道徳が出来上がる。つまり、美醜で予め人を差別することは、その社会の利益に反するという事実の、道徳への翻訳である。
美醜を肌の色に変えても同様である。肌の透けるような白い人たちが主な構成員となっている地域に、肌の色が黄色いアジア人が居たとする。その白人たちは、そのアジア人とは幾分疎遠になる可能性が高い。しかし、そのアジア人が知的で勤勉であれば、社会で重要な役割を果たす可能性がある。
従って、アジア人差別は、その社会にとって大きな損失になる可能性が高い。それが人種差別を悪とする道徳の存在理由である。差別の感情が私的な空間に閉じ込められ表にでなければ、結果としてアジア人が社会の適材適所に分散され、その社会全体の能力が向上し安定化する。アジア人も白人も同様に満足して生きることが可能になるだろう。
ただ、私的な時間と空間で白人がアジア人を嫌う感情を持ったとしても、それはその白人達の自由である。アジア人も白人を嫌う感情を私的な空間に閉じ込めておれば、問題はない。大事なのは公的な空間においてどのように振る舞うかである。
近代国家では家を一歩出た瞬間から、人は公的な空間に入る。交通機関の利用、生活必需品の購入、住居の賃貸契約など、家の外で金銭が動く時の全ての行為は、公的な空間における法的な行為である。そのような時、誰かが誰かを予めそれらの行為と無関係な特徴において差別する行為は、道徳に反するだけでなく場合によっては違法であり、社会悪である。
宗教上の問題を別にすれば(再度、補足2)、善悪は公的な空間と時間に限られた概念である。現在の民主主義と法治の原則を最重視する近代社会では、宗教は最初に述べたようにあくまでも私的な空間での話であり、社会的善悪とは本来無関係である。(補足5)
3)階層社会と私空間における差別:
差別を悪として退けるのは、先進国を中心とした近代社会である。それは、個人の自由と平等、人権尊重、そして法治を原則とする公的空間である。階層社会はそれらの原則を受け入れない社会であり、従って差別を議論しても意味がない。(補足6)
また、私空間での差別は、普通問題にならない。例えば、親が子供への対応において個別に差を設けても、法令に違反しない限り問題にならない。(補足7)長子差別や末子差別については、社会(公空間)は批判する権限を持たない。
また、閉じたグループ内、例えば共同体内部での人間関係における待遇差も、その内部で話がとどまる以上差別にはならない。会社などの機能体組織内でも、上記差別を議論する前提が成立しないので、議論に意味はあまりない。(補足8)
ただ、これらの組織等と公空間の境界、例えば採用や解雇に関係する状況等では、公空間と関係するので差別は問題となり得る。
人の好き嫌いを処罰することは人権無視となる。一人の空間に閉じ込めることが可能なら、差別感情をもったり、差別の言葉をメモにしても罪にはならない。勿論、ある特定の人格神に私空間を渡した人(信者)には、その自由は無いだろう。(18時20分、編集)
補足:
1)「人格的善悪こそ、人の善悪である」と考える人が大勢いるだろう。しかし、人の評価で対象と出来るのは行為のみである。人の心の中は見ることが出来ない以上評価しようがないからである。「」の言葉を信じる人達の“人格”は、対象となる人のこれまでの行為を見て抱いた幻想に過ぎない。
2)人格神を崇める一神教の信者たちは、私空間にもその人格神が存在する。従って、個人は二つの人格の複合体ということになる。余談だが、日本の明治以降の政治の間違いは、天皇を人格神のように作り変えたことである。
3)これが私の浄土真宗に対する理解である。議論していただければ幸いである。
4)昨今の先進国における人口減少は、社会が住みにくくなったからである。それは文明の発展ではなく、崩壊が始まったことを示している。
5)古代において一神教は民族のリーダーの神格化により生じた。一神教は多民族との戦いの旗頭として存在し、従って私的空間に於けるよりも、社会的空間での意味の方が大きかった。しかし現代では、一神教の主なる存在空間は私空間となった。この一神教の位置における時代に伴った変化は、地球上の位置により異なる。
ここで一言補足2に追加をする。一神教の世界では「善悪は神が決める」が、今回の議論における結論は「善悪は社会が決める」である。後者の考え方では、善悪は時代とともに変わる。それを裏返せば、一神教の善悪は時が経つに従って、時代遅れとなる。一神教の世界は、この事を真剣に考えるべきである。
6)階層社会でも、一つの階層の中では差別は問題になるだろう。しかし、ここでは議論しない。
7)法令に違反するのは、公空間に影響する行為である。しつけの範囲にあれば、子供に対する暴力(例えば平手打ち)に見えても、公空間の権力は及ばない。
8)ここで深刻なのは共同体的組織内でのイジメである。イジメの実態が刑法にある暴行や障害であっても、警察は動きにくい場合が多い。それは、閉じた共同体的空間での出来事だからである。一般にその種の事件では、当事者に所謂善良なる人物しか居ない場合が多く、警察も徒に刑法犯を作り上げることをためらうのである。8年ほど前の事件について書いた記事があるので、それを一つリファーしておく。