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2021年6月29日火曜日

差別について:人種差別や女性差別ばかり何故話題になるのか

5月末の「善悪、差別、社会、そして個人の自由」と題する記事の中で、「善悪」は「社会」と伴に形成され、それ以前には存在しなかった筈であると書いた。そこでの議論から、「差別」は、他の悪と同様、人類が社会を形成した後に発生した。それが「悪」なのは、その蔓延が社会の機能低下の原因となるからである。(補足1)

 

今回はその延長上で、特に差別についてもう少し考えてみようと思う。米国社会では、黒人差別やアジア人差別が頻繁に攻撃の的にされている。この黒人やアジア人という外見に対する差別は、黒人は粗野だとか、アジア人は何を考えているか分からないとかの判断を、個人に対して事前に行い、その人を冷遇することである。(補足2)

 

差別か差別でないかの境目は、その機関や人が行う例えば採用試験において、その人物を冷遇する具体的且つ個別の理由の有無である。つまり、予め得た外見や出自などで、人を冷遇することが差別である。合理的な理由(つまり採用試験の点数が悪かった)があれば、冷遇することは差別ではない。(補足3)

 

差別として分かりやすいのは、例えば男女差別や上記人種差別である。それらは差別する側とされる側がグループ分け(類型化)しやすいので、世界中で撤廃を要求する運動が頻繁に大々的に成されてきた。しかし、その他に差別が、実は非常に多く存在する。ただ、そのほとんどが撤廃を要求する社会運動となり難い差別である。 今回はこの分かりにくい差別も含めて議論する。

 

「差別」は、上記分かりやすいケースと思われても、個々のケースになると「差別なのかそうでないのか」は非常に分かりにくい。例えば人種差別が疑われる人に対して、それを指摘しても、「人種で差別したのではない。彼(又は彼女)の粗野な態度が、その悪い待遇の原因となっただけだ」などの言い訳が、ほとんど常に存在するからである。

 

2)社会的運動を展開し難い差別の存在について:

 

男女差別など集団に対する差別は、上述の様に反対運動を展開しやすい。その対象となった形質を持つ人達が団結して差別撤廃を社会に訴える事ができるからである。社会に訴えるのは、上にも述べたように、個々には差別を特定し戦うことが非常に困難だからである。

 

あまり言及されないのだが、社会にはそれ以外の、集団で訴えることが難しい差別が多く存在する。それは、美醜や体格、思想、家柄などででの差別である。被差別部落民差別などのケースでは、集団で訴えることが比較的簡単であるが、それも自分の出自を明らかにすることが必要であり困難である。家柄については、不合理な優遇(負の差別)が多く存在する(補足4)

 

これらの中で最もわかりやすいのは、顔貌による差別である。女性の場合、美人は得をし、それ以外は損を分け合う。この明確な美人優遇は、女性差別の一つの側面である。しかし、この分かりやすい女性差別の部分がなくなった場合でも、男性の場合と同様に顔貌の印象での差別は残るだろう。

 

これも黒人差別や黄色人差別と同じく、外見での差別である。しかし、それが大問題となることがほとんど無いのは、既に述べたように、団結して訴えることができないからである。「醜い男女の集団が、差別撤廃を訴えてデモをしました」というニュースを聞いたことがない。団結できない被差別人は、惨めであるが運命として受け入れるしかない。

 

この理不尽を初めて意識したのは、あの大韓航空爆破事件の金賢姫が死刑の判決を受けた後に、当時の大統領の一声で釈放された時だった。これが普通の男だったら、或いは、生意気そうな中年女性だったら、死刑が執行されていただろうと思った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%B3%A2%E5%A7%AB

 

世界の国の中で、美容整形が人口当り最も盛んな国は韓国である。ある統計によると、韓国の企業人事担当者の34%は、仕事の能力よりも容貌を優先するという。恐らく、韓国社会に基本的人権、個人の自由、法治の原則などの西欧文化の大事な部分が根付いていないのだろう。(補足5)https://www.data-max.co.jp/article/20777

 

就職のプロセスにおいて、このような差別を受けてはたまらない。この問題を最小化するには、①人権思想の浸透と、②同一労働同一賃金の原則の徹底と労働力の流動化である。この改革は、労働市場に本当の実力主義を入れ、経済全体の活力を取り戻すために、日本にも是非必要な改革であると思う。(追補1)

 

追補1)ここで、美人を好んで採用することを全否定している訳ではない。美人であることも、持って生まれた実力の内という職場では、美人を採用するのは当然である。「問題を最小化」するというのは、差別としての美人優遇を無くすことである。同様に、頭脳明晰の人を企業が求めるのは当然だが、高校までの成績できまる(日本では)一流大学卒業というラベルで採用を決めるのは、学歴差別である。経済界が、採用者の本当の実力を見ずに学歴で決めていては、その企業に将来はないし、日本の経済にも未来はない。

 

3)差別撤廃は多様化した能力の人々と個人の自由と人権を尊重する為に必須である

 

ここで、社会の発展と差別の関係を考える。家族、大家族、地縁などが社会(文化を担う主体となる;補足6)を形成する時代では、全ての個人が大切な共同体のメンバーであり、それなりの公平性は予め確保される。

 

しかし、文明が高度になり、社会が複雑で大きくなると、高度な知識を要する多くの専門に分割され、それらをまとめるヘッドクオーターも必要となる。そして、その社会の目的を果たすように、全体として一つの機能体組織として動く必要がある。その結果、様々なタイプの人物がこの社会に必要となる。この社会についての考え方は、“社会の動物モデル”とでも言えるだろう。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12588961158.html

 

人とその社会の命運は、その機能体の能率と、その反映である仕事の質と量(パーフォーマンス)に懸かる。その時代の要請に答えず、人材の選択において共同体的感覚が残ると、至る所に差別が発生し、十分な専門化が出来ないし、機能体全体の整合的動きも達成できないだろう。

 

仮に専門化を進めても、それら各専門が十分機能するには、専門間や専門と司令部門との双方向のコミュニケーションがなければならない。均一な価値観と単純なヒエラルキーの受入を強要し、ガチガチの人間関係の温存のために、敬語を複雑に用いる日本の文化、そこには人材の多様性や、双方向の自由なコミュニケーションはない。そこで、世界の高能率な会社に脱皮できないのが、日本病の原因である。(補足7)

 

社会は感覚支配から論理支配となり、学歴や家柄や外見などを重視してはならないというのが、公平及び公正の基準となるだろう。それが、差別を厳しく禁止し、個人の自由と人権を擁護する西欧の文化となったのだと思う。

 

現在、先進国の文明は、益々個性化が進んでいる。その結果、その社会の横方向の発展を担う人の能力は、多様化している。膝が破れたGIパンツを着ることで、その人全体のバランスをとる感覚は、我々高度成長期の人間には容易に理解できない。

 

 

エピローグ: 厳しい外見差別がアーリア人を美形にしたのか?

 

今回の話は一応この当りで閉じる。ここで、差別が人の外見にどのように影響したかを簡単に書く。上記のような差別が人類誕生以来、社会が大きくなり原始的な機能社会になって起こったと思う。その次代には差別は、そのまま選別になった可能性が高い。それが、人がオランウータンやゴリラに似た顔から、人間の顔への変化の一つの理由だろう。そして、そのプロセスが中途半端だったのが、アジアの仏教圏だったのではないか?

 

原始的な機能社会で一番重要なのは、体力や健康である。その優秀さのラベルが骨格であり顔貌である。その時代から組織的な戦争が発生しただろう。その結果、敗戦した社会(国家)の民の運命は、選別されて奴隷となるか、虐殺されるかのどちらかだろう。ここで、上に引用した大韓航空事件を思い出してほしい。そこでは、大規模な選別が起こる。それが人間が美しくなったプロセスの可能性がある。

 

東洋の農業国家では、そのような奴隷文化が大々的ではなかった。それが、あの西欧人の目鼻立ち鮮明な美形と東洋人の若干猿ににた顔貌の原因の一つだと思う。気候による顔の変化もあるだろうが、インド・アーリア人は南方にも多い。以上、独断と偏見を含む内容だが、ブログとは学問的記事ではないので、その点ご寛容のほどお願いします。それとともに、議論や反論があれば宜しくお願いします。

(追補1を挿入:6/29/12:00;表題変更:6/30/6:00) 

 

 

補足:

 

1)差別という言葉の第一(本来)の意味には、悪の価値はついていない。単に、ある一群を別の群或いは全体から区別することである。ここでは差別という単語を、二番目の意味「一群を区別して冷遇すること」の意味に用いる。尚、一神教の国では善悪は神が決める。従って、神に”見放された”我々は、善悪を自分達で決定しなければならない。

 

2)北米のある国での体験だが、釣り銭を渡す時、上空から落として渡されたことがあった。別の時、品物を間違って渡されたので、ちがうというと完全に無視されたことがあった。英語が聞き取れなかったのかもしれないが、聞き返せば解る筈の日常的な品物の売買であった。

 

3)この他、外見だけで区別し待遇に反映しても「差別」に当たらないものもある。その中で重要なのは男女の別を待遇に反映するケースである。例えば、兵士への採用は、男子を優先するのが未だ常である。それは身体的特徴がそのままその仕事の能力と直結する場合が多いこと、更に歴史的背景の影響が残っているからである。戦争が完全に電子装置の操作の戦いになれば、男女の区別は採用に反映しなくなるだろう。

 

4)家柄での不合理な優遇は日本では非常に多い。日本では民主主義が十分理解されていないからである。例えば国会議員や地方議員に二世議員が多いこと、芸能界などにも二世が非常に多いことなどである。個人としての権利の主張があまりなく、周囲の微小な圧力にも屈する文化の日本では、この種の逆差別が多い。その一つの原因として、日本には市民革命がなかったこと、未だに皇族や貴族階級が存在することがある。それは日本国の弱点であり、国政選挙なども盛り上がらない原因である。この件、以前ゴーストライターが書いたと言われる小沢一郎の本「日本改造計画」にほぼ正確に書かれている。

 

5)あるテレビ番組で、韓国の美容整形の現状について放送されていた。ある整形前の女性の家庭が紹介されていたのだが、驚いたのは来客があったときに、その女性が客の居る部屋に入って来ないよう言い渡されていたことである。人権思想が完全に欠落していると思った。

 

6)現在もっとも大きな独立した主体は国家である。その中に、多くの社会が存在する。地縁共同体的な地域社会、会社などの機能社会、非常にゆるく結合した大学などの社会など。文化を担うのは生活費を稼ぐ会社などの法人だろう。

 

7)日本の会社から政治組織に至るまで、全て調整型組織をとる。そこでは、当然、機能体化が十分になされていないので、非効率であり高度化にブレーキが掛かる。それが日本没落の根本的原因である。そのことを昨年1月、ある記事を引用する形で議論した。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12564206453.html?frm=theme

 

 

 

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