1)堕落論の内容と感想:
坂口安吾は、敗戦直後の日本人と日本が急速に米軍の支配下に順応する姿を見て、この堕落論を書いた。そして、堕落は人間本性への回帰であると喝破する。そこから、日本文化の中の幾つかの規範を取り上げ、それらは本性への回帰を防止するための防波堤のようなものであったと分析する。
例えば、武士道の忠君という規範は、忠君ならざる武士の弱さへの防波堤として作られている。多数の助命嘆願を排して赤穂浪士を処刑したのは、彼らの堕落した将来の姿を想定し、彼等の名誉を守る老婆心のためだったと言うのである。そして、元来日本人は最も憎悪心が少なく永続しない民族であることの裏返しとして、日本の武士道の規範を捉えている。
戦争末期、日本全土は凄まじい破壊の現場であった。そこでは、その中で生き延びる人たちはただ必死であっただろう。その運命に従順な人たちの姿は美しかったという。そして著者は、その人々を従順にして美しく見せる破壊を「偉大な破壊」と呼んだ。(補足1)
その運命に従順な美しい人の姿も、戦争が終われば堕落して泡沫のように消える。特攻隊の勇姿も、東京裁判の法廷に切腹もせず“くつわを並べて”法廷にひかれる老年の将軍たちの壮大な人間図も、等しく人間の姿である。
「日本は戦争に負け武士道は滅びたが、堕落という真実の母体によって始めて人間が誕生したのだ」「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有り得るだろうか」などの言葉は、著者の人間讃歌でもある。
この倒錯した人間讃歌は、人間の生が著者の言葉では語れるほどの小さな存在ではないことを表している。著者は言う、「歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ」と。
以上が、坂口安吾の「堕落論」の話の筋と私の直接的感想を融合させて簡潔に書いた。
2)総合的感想
私は、「言葉の進化論」において、言葉は共同体社会の形成とその拡大・進化とともに発達したというモデルを提出した。従って、人間が進化する文明の中で、生きぬくために進化したのが現在の言葉である。文化は人間の生の一表現であり、それとともに言葉も現在の形になったと考える。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12482529650.html
従って、現在の言葉を用いた「人間の生」の表現も、現在の文化の下での表現に過ぎない。普遍的な「人間の生」の表現は、一つの言葉では不可能である。そのもどかしさのなかで上記の”偉大な破壊の中を生き抜く人の姿”とか”壮大な人間図”が、坂口安吾に「人間の生は堕落するのが本来の姿である」とか「歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ」と書かせ、同時に「私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである」と言わしめるのだと思う。
別の言葉で表現すれば、日本の文明・文化の中で生きる人間の姿や「堕落」と表現される人間の生の本質への回帰は、巨大な「人間の生」の日本文化への投影に過ぎない。忠君の武士道を体現する武士の姿や、「二夫に見まみえず」の節婦も、日本の文明社会で発生した言葉での記述である。それらも、一つの投影に過ぎない。
「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ」この文章中の人間の誕生とは、原点に回帰した人間という意味である。異なる文明の下では、人はこの原点から出発して別の文化という衣を着て、そこでの(文化的)人間となるのである。
(2月8日6:00編集、まえがきとその補足を削除、セクション2の第3節以降の「現在の文化」を「日本の文化」に変更、最後の分の「人間」を「(文化的)人間」に変更;16:00 語句の一部を変更、最終稿とする。)
補足:
1)この歴史を巨大な生き物と見る見方は、日本人独特かもしれない。日本人は分析的に見るのではなく、総体を感覚的に見る見方に慣れている。それは、アニミズム的な神道(御嶽信仰、白山信仰などの古いタイプの神道)の国の特徴だろう。それが、あの原爆碑の言葉から慰安婦問題へのあいまいな態度を理解する鍵だろう。
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