2015年10月13日火曜日

教育の目的と方法:疑似体験的教育

前回、教育を情報の流れという側面から捉えて、初等中等教育と高等教育のあり方を考えた。ここでは、初等中等教育で特に重要な項目について(補足1)、その方法として”疑似体験的教育”を提案する。

教育の目的は、初等中等教育では子供たちにこの社会で生きる上での必要な一般常識とノーマルな感覚、及び職業を得て生きる特定の場所に応じた特別教育を与えることだと思う。そして、高等教育においては社会のリーダーや極めて専門的且つ高度な知的技量を要する職業に対応できるよう、知識と問題解決能力、更に創造力をつけることである。教育の目的は、紙に書けば自明のことであり、今更議論するようなことではないと思う。以下に初等中等教育において、市民として最低限の知識を如何に教育するかについて記す。

大事なことは、教育の中で重要な位置を占める、社会、常識、知識、平和、善などの言葉には、幾つかの或いは何段階かの定義があり得るということである。例えば知識といっても、言葉で表現して紙の上に一通りの表現方式で表せる部分は限られている。学生や生徒を出来るだけ正しい理解に近づけさせようと思えば、1方向からの情報移転という方式では無理であり、双方向や輪になった議論などを通さなければならない。換言すれば、最初にその知識を人類が獲得した時を”疑似体験”する様に、習得させるべきなのである。それにより、知識をそれに付随した感覚とでもいうべきものとともに習得することが可能になる。

その様な知識を得る疑似体験には、その環境である世界とその状況の想定抜きにしてありえないし、そこに登場する人間は善悪の感覚を持っているはずである。本物の知識は、そのように背景とともに習得され、それは生きた知識となる。その様な“教育”は、初等中等教育から重要な項目については行うべきだと思う。

例えば、「戦争は悪か?」という問題を疑似体験として思考させれば、戦争に対する知識や悪とは何かいう知識が同時に習得できる。更に、国家とは何か、社会とは何かという知識抜きにしては、戦争は理解できないので、「戦争は悪か?」という問題を議論して一通りの答えにたどり着く間に、社会、国家、そして市民についても、その概念とあり方が最終的には理解出来るはずである。言葉は、相互に関連して一つの世界をつくっているので、単語だけを知識として教えても、その本質にはたどり着けないのである。

善や悪、命の大切さ、などの人間に強い感情を引き起こす問題については、疑似体験的な教育はなされているだろう。しかし、その場合でも疑似体験を家庭のレベルで行うか、民族のレベルで行うか、地球規模で行うかで理解される内容が全く異なるだろう。つまり、遠近の違いを正しくとって、この世界全体を背景にとって思考しなくては、正しい理解には到着しないし、現実の問題には役に立たないだけでなく、大きな障害になる。歴史の教育においては、もちろん時間軸を広くとり、背景とその変化も正しくとりいれて、疑似体験させるべきである。日本では決定的にこの種の教育が欠けていると思う。

最近の国会周辺で起こったデモをみると、一般市民の中にもその様な思考ができる人が少ないのではないだろうか。

補足:
1)前回のブログ記事で紹介した、池上氏と佐藤氏の”教育の究極の目的について”の内容であらわれた、「良き市民」(池上氏)とか、「信頼の重要性」(佐藤氏)などは、この特に重要な概念ということになる。

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