ノーベル賞研究は、人の役に立たなくて良いのか?(補足1)
1)今年のノーベル生理学医学賞3人の受賞者の一人として、大村智・北里大特別栄誉教授が含まれていた。同じ日本人としてたいへん嬉しいことであり、日本の科学、医学、工学の層の厚さを改めて、海外にも知らしめることになった。受賞対象となる研究は、土壌内細菌から採取された化合物を元にした新しいタイプの抗生物質の開発とのことである。
この時の取材で、大村先生は「人の役に立つこと」を目指してきたと話されていたと思う。その志通り、開発された薬は幾つかの伝染病に対する恐怖から、アフリカに住む数億人の人々を解放した。大勢のアフリカの子供達の中の大村先生の笑顔が、それを何よりも明確に証明していた。この受賞は、人類への貢献という意味で“平和賞でも良かった”という、野依前理化学研究所長の言葉が示す様に、日本のイメージを大いにあげることになり、国家への貢献にもなった。
その次の日に、改めてびっくりすることになった。東大梶田隆章教授のノーベル物理学賞受賞である。カナダの研究者との共同受賞となったその業績は、素粒子物理学において画期的なニュートリノ振動の発見である。これも日本の科学研究のレベルの高さを証明し、日本のイメージをあげた。 また、多額の投資となったスーパーカミオカンデの見返りとしても、小柴名誉教授の賞を含めて二つのノーベル賞は十分であり、従って国家への貢献も多大であると思う。
ただ、この研究は近い将来の人類に何か役立つか?と問う人が大勢いるだろう。その質問には、だれしもノーと答えるだろう。
2)“国費を投じて行う研究だから、人の役に立つべきである”という考えが、時として基礎科学への攻撃の矢となって放たれることがある。しかし、国家のイメージを上げるという意味において、両方の研究は異なった角度からではあるが、大きな貢献をしたのは確かである。そして、それは日本人に限れば、活力と自信を与えるという意味でも、既に役立っているだろう。
最初に利益があると思われたことでも、最終的には大きな損になったりすることが多い。また、最初何の役にも立たないと思われたことが、思わぬ救いとなったりする。それが人類の歴史ではなかっただろうか。今回のノーベル賞の対象となった二つの研究とて、その例外ではないと思う。
すべての人間の行為は、人類が作ったこの複雑な社会の中において、神のみが知る経緯で歴史の中に刻まれると思う。しかし、一つだけ人類が保持してきた思想の柱は、「知は人類の唯一の特徴である」ということである。その知において、多大なる貢献をした者に対して、栄誉が与えられるのは当然であると思う。もちろん、ノーベル賞が完全にそれに沿っているとは思わないのだが(補足2)。
補足:
1)ノーベル財団は私的な財団なので、だれに賞を与えるかは財団が私的に決定することである。従って、この問いそのものに意味はないのだが、現在世界的権威ある賞として公的性質を帯びているとの前提で、この文章を書いた。
2)生存者のみを対象にしているので、最高の知的貢献をした者という意味では、漏れている人の方がむしろ多いと思う。また、アインシュタインの相対性理論などにはノーベル賞は与えられていないことでもわかる様に、授賞のルールにも揺らぎがあるだろう。
当初ノーベル賞は業績を上げて能力を示した研究者に、今後の活躍を期待して与えられていたという。それを聞くと、疑問の多くが氷解するだろう。ノーベル賞と雖も、あまりにも大きい意味を背負わされると”しんどい”(荷重越えな)のだ。
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