人間の知性は本来、槍のような方向を持って発達するものだろうか? それとも、全身の肌で自分を取り巻く世界を認識して、それを知ろうとするような全方向的に発達するものなのだろうか。私は後者であると思う。なぜなら、知性も生命を維持するためのものだから、生命を脅かす可能性のある全方位に向けられる筈だからである。
しかし、専門家として大きな業績を残しても一歩外の分野に出ると、ほとんどナイーブな状態の人が多い。先月、安全保障法案に反対する運動がテレビで頻繁に報道されたが、その中に何人かのノーベル賞受賞者を見た。戦争反対という幼稚なスローガンを掲げるその人たちは、一面から見れば世界の知性であるが故に、複雑な思いを持った人も多かっただろう。
人は互いに自分の得意な分野で活躍することで、この文明社会を作った。巨大で複雑な経済構造と高度に発達した技術文明は、ダブルヘリックスの様に互いに絡みあって発展し、地球全体を覆うようになった。それを可能にしたのが夫々の分野で高度な知識を持った専門家集団である。
現在、社会の基本的単位は国家である。その社会を多くの専門的ブロックに分けたモデルを考えれば、国家全体の力を増強するには、各専門ブロックにおいて、出来るだけ高いレベルに到達することである。
国家の間は、現在も将来も基本的には野生の論理が支配する。経済面では、特にそうであるので、(繰り返しになるが)そこで生き残るためにはより高いレベルの専門家養成が必要になる。人間の頭の容量は限られているので、より高い専門的知識の達成には、知的分野を狭く区切って、より多くの専門分野への分割が必要となる。
その結果、国家は早期(幼年期)からの専門教育に向けた教育を導入することを画策するようになる。文科省がスーパーサイエンスハイスクールの指定を行い、そこでは従来の高校カリキュラムを超えた授業を行うのも、その一環である。大学が1990年代から次々に教養過程を廃止し、専門教育に集中するような姿勢を見せたのもその一つであるだろう。更に、最近のことであるが、国家は多くの大学の文系学部を縮小して、技術系に向ける様に強要している。
その社会の専門領域への分割化は、知的分野だけではなく、あらゆる分野に及ぶ。例えば、ほとんどすべてのスポーツが余技から専門的職業に変化し、その結果、スボーツの幼児教育が盛んとなった。その成果として、例えば体操などでは、人間の極限に挑戦するような、高度な技が現れるようになった。
果たしてそれで良いのだろうか?
専門家は槍を持つ方向には極めて強い。しかし、側面からの攻撃には考えられないほど弱い。そして、そのレゴブロックのように、社会に組み込まれた専門家は、果たしてその方向で自分の人生を全うして良いのだろうか? その疑問が一人一人の中で強くなれば、専門の内部崩壊を招くだろう。また、社会の専門ブロック間の信頼と連携には、広い知識を持つ人材が必要である。専門ブロック間の不協和音は、社会に矛盾を生み出す。
更にもう一つ重要な点であるが、ある独立した社会あるいは国家には、多くの上記専門のブロックの他にもう一つ、社会の各ブロックを制御し全体の動く方向をきめる“制御ブロック”が必要である。それは、人間で言えば頭脳であり、コンピューターでは中央情報処理装置(つまり、CPU)とメモリーであり、国家では政治(行政、立法、司法)である。国家と国家の競争には、主に国家のエネルギーである経済と頭脳である政治の二面がある。経済の面は、理系の高度な専門家群が必要であるが、政治の面では、高い教養とセンス、多分野に知識を持つ人間が必要であると思う(補足1)。新しい局面が突如訪れたとしても、ゼロから対応できるような想像力豊かな人材である。
専門へのブロック分けは、一つのモデルにすぎないのであり、人間も社会も本来切れ目のない連続した存在であることを常に念頭に置くべきである。教育における理系偏重は、非常に不自然であると思う。また、大学の専門教育を細かく分ける現在のあり方は、適応性の狭い人間を大量につくることになり、将来に禍根を残すような気がする。
補足:
1)政治はPoliticsという言葉が示すように、政治家には国家内や国家間の関係を多くの角度から眺める能力を要する。日本は、大学に一つも政治学部のない珍しい国であることを、政府要人は知っているのだろうか。政治学部ができて、優秀な人材が出てきたら、自分たちが失職することを恐れているのだろうか?
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