昨日のテレビで、子供を対象にした素朴な疑問に対する答えを集めた本が紹介されていた。その一つの疑問が表題のものである(正確には記憶していないので、文章の組み立てに少し差があるかもしれない)。
大人が「命は皆おなじだ」と答えると、「いつも人の命は大切に考えないといけないと言っているのに、何故人は同じ命をもっている鶏を殺して食べてもいいのですか?」が子供から返される。この質問に答えられない大人が多いのではないだろうか。
この疑問に答える為には、命とは何か?を考えてその答えを用意することが大切である。その答えの用意を理系の言葉で言えば、「命を定義すること」となる。因に、科学が発達したのは、西欧文化が論理的な議論に耐えられる言語を持ち、定義という準備段階をつくって、それを基に議論したことによる。
命の問題に入る前に、言語を注意して用いること(特に日本語では大切)、及び、定義(注1)が大切であることを次の文章を例に説明する。
例えば、「このカバンは5000円です。」という文章の本当の意味は、「このカバンの値段は5000円です」である。日本語では安易に”値段”という鍵となる単語を通常省略してしまう。数式を使って表現すると、[このカバン]=5000円ではなく、[このカバンの値段]=5000円なのだ。
つまり、「このネクタイの値段は3000円です」と値札がついたネクタイがあったとして、値段を比較した場合、明らかに[そのカバンの値段]と[そのネクタイの値段]は違う。しかし、値段という単語の意味(定義)は同じで、「売り主が品物などを買う人に、対価として要求する金額」のことである。
本論に戻って、同様に命を私風に(学会の定義を調べていないので)定義すると、命とは「他の物質を吸収同化(注2)して、自己の内部に外部と異なる固有の環境を維持し、ある時期に自己と同じ種の別個体を再生産する能力」となる。そう考えると、「命」は異なった文章の中でも同じ意味を持つが、人の命と鶏の命は、ネクタイの値段とカバンの値段が違うのと同様、異なることになる。つまり、”人の命”と”鶏の命”の違いは、人と鶏の違いによる。命が同じだからといって、”人の命”と”鶏の命”が同じにはならないのだ。
このような定義を用いた文章の意味の分解は、子供に理解させるのはむつかしい。それが、簡単そうに見える子供の疑問に大人が手こずる原因である。蠅の命も同じ命と考える傾向は、「やれうつな 蠅が手をする 脚をする」という俳句でも判る様に、日本文化の特徴をつくっている。仏教において、虫の命でも大切にしないといけないと考えるのも、命とは何かという定義が難問だからかもしれない(多分定義できなかったからだろう)。
キリスト教圏では家畜の命と人の命は、明確に難なく区別される。それは、神によるこの世の創造の段階から家畜と人は異なるからである。具体的には神は6日間でこの世を創られたが、6日めに獣と家畜と人は夫々別に創造されている。人は神の形に似せて創られ、全ての創造物の中で特別の位置をあたえられている。つまり、キリスト教圏では表題の疑問は既に神により解決済みなのである。
最後に、英語では命はlifeである。生活と同じ単語なので、表題の疑問文は最初から子供の質問としては存在しないだろう。
注釈:
1)定義とは、別のより基本的概念を表わす言葉で表現すること。”歩く”を定義すると、「脚を使って空中に全身を瞬時とも上げないで移動すること」となる。逆に難しくなった様に見えるが、定義によりよりその言葉の意味を厳密に示すことができる。”歩く”が定義できれば、”歩く”と”走る”の違いが説明可能となる。
2)同化は自分の中に自分の物質とすること。”炭酸同化作用”の中の同化である。反対語は異化である。
<12/19/19:00 最終稿>
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