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2015年6月28日日曜日

明治維新とは何だったのか?

一月程前たまたま本屋で、原田伊織著の「明治維新という過ち(毎日ワンズ、2015/1/15)」(以下A)を見つけた。我々が単純に理解していた明治維新に関する知識が全く間違っているという。つまり、吉田松陰が開いた松下村塾(補足1)の塾生が中心になって成し遂げた、偉大な革命という明治維新の物語が、最終的に勝利し生き残った長州の元下級武士である山形有朋らの官製物語であるというのである。

その後読んだ、半藤一利著の「幕末史(新潮社2012/11/1)」(以下B)と井上勝生著の「幕末・維新(岩波新書、2006/11/21)」(以下C)でも、感情的な表現は少ないものの、上記「明治維新という過ち」とその内容に大差がない。いままで日本の一般国民が学校教育を経て持った歴史に関する理解とは遠い所に、幕末の歴史的事実があることが判った。一般用の歴史書として書かれたCの索引には、伊藤博文や高杉晋作の名はあっても吉田松陰や松下村塾はなかった。

ペリー提督が浦賀に錨を降ろした時(1853年)に大騒ぎになり、「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった4杯(4隻)で夜も眠れず」と詠われたと学習した。しかし、オランダに毎年送る様要請した報告書(オランダ別段風説書)により、幕府はペリーが来ることを前の年から知っていた。また、既に1842年に捕鯨などで立ち寄った船に必需品を提供する「薪水給与令」を出し、異国船打払令(1825年)を撤回している。さらに、ペリー来航より7年前に米国海軍士官のジェームズ・ビドルが、軍艦2隻で同じ浦賀に来て開国を要求したが、幕府は拒絶している(A43頁)。

19世紀後半の日本の行政を握っていた幕府は、中国でのアヘン戦争やインドの植民地化、西の方でのクリミヤ戦争、イギリスの産業革命など全て知っていたのである。万国公法なども漢訳されたものを入手しており、すくなくとも幕府は世界情勢と日本の現状を基に、日本のとるべき方向を議論し、大凡の解答を得ていたと思う。そしてその改革が幕府だけでは成し遂げられないことを知り、朝廷と諸藩に説明し協力を得る努力をしている。日米修好通商条約締結の年(1858年)に、孝明天皇の異母妹の和宮を将軍家の御台所にする話が始まっている(B第3章)ことは、朝廷の協力が必要と考えていた証拠の一つである。

幕府は諸大名に日本の外交について諮問をし、例えば島津藩は斉彬が藩主の時から外国との通商に賛成している。また、その後ハリスと日米修好通商条約を締結のころには、ほとんどの大名の間で合意形成がなされている。土佐藩も朝廷に条約承認を求めている(C52-3頁)。日本が何らかの形で近代化し、統一して通商外交を行なうのが、進むべき方向であるという考えは、諸藩幕府朝廷の人たちの殆どが、攘夷決行の日(1963年5月10日)には解っていたと思う。長州でも最初は攘夷論が藩の主流ではなく、1861年に航海遠略策として、幕府朝廷に対して海外への貿易進出を提案した(C77頁)。実際、1863年5月12日には留学生5名を西欧に送っている。その2日前5月10日が、朝廷の工作で幕府(将軍後見人慶喜)が諸藩に攘夷決行の日として通知命令した日である(詳細は、B第4章)。実際に攘夷を実行したのは、長州だけであった(補足2)。

“倒幕と明治維新”は、単なる権力闘争であり、維新と呼ばれる様な性質のものではない。攘夷も勤王(や尊王)も、闘争相手を攻撃する口実に過ぎない。そして、最も法も倫理も無視して、混乱の時にこそ有力な手段となるテロリズムで実権を得たのが、長州や薩摩の下級武士の集団だったということになる。その舞台を用意したのが、孝明天皇の頑迷な攘夷であり、それを120%(補足3)利用した岩倉具視だろうと思う(B第7章)。半藤一利さんはB6章で、通商条約の勅許を慶応元年まで渋っていた孝明天皇について、批判的に書いている。“天皇家というのはいつも面白いですね。皇統が大事というのが先ず来て、次に万民を苦しませたくない、この二つで結局「致し方ない」となるのです。太平洋戦争終結のときの昭和天皇もそうでした(B223頁)。”

歴史物語を勝った側が創るのは、中国の史記や日本書紀など昔からのことである(補足4)。歴史に「もし」は禁物だが、幕末の時代に日本国という枠があったとしたら、日本全体では無駄で大きな損失をしたことになる。

Cの前書きに、“日本の開国は比較的早く定着した。そうであれば、幕末・維新期の対外的危機の大きさを強調するこれまでの評価を大幅に見直す必要がある。”とある。そして、切迫した対外的危機を前提にするから、専制的な近代国家の急造が「必至の国家的課題」だったということになると書かれている。また、慶応元年には条約の勅許が出て、ペリー以来の騒動が決着したが、その時のことについて半藤さんは書いている。“慶応元年のこの時(1865年10月4日)、日本の国策は一つになったのです。ですから本来なら、ここで倒幕などと言って国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだったのです。”

補足:
1)松下村塾を開いたのは、吉田松陰の叔父、玉木文之進である。玉木は明治2年に塾を再開し、明治25年までつづいた。Aの第三章に詳しく書かれている。
2)薩摩の生麦事件や長州の米国商船攻撃事件の莫大な賠償金は、主に幕府により支払われた。それは財政を悪化させることと、諸外国に対する信用を無くすという二つの面で幕府にとって大きな打撃になった。
3)孝明天皇の死亡経緯とそれが持つ決定的な意味については、Bの256-260頁に記載されている。天皇の死亡がなければ、簡単には倒幕に至らなかったのである。
4)岡田英弘著「歴史とは何か」(文春新書、2001)

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