今朝(6/29)、NHK7時の朝のニュースはギリシャ金融危機から始まり、17分頃からタマ駅長死去のニュースが現地中継を含めて放送された。8時から”特ダネ”という番組を見る場合が多いが、今朝(6/29)トップに出て来たのが、やはりタマ駅長死去のニュースだった。その県の知事を始め、何と全国から3000人が別れの式に集まったという。
動物駅長の先駆けであったとのことであるが、何故こんな下らないことに関心があつまり、くだらない式をするのか不思議である。ただ、いままで何度も似た様な現象が起きている。例えば、ユルキャラブームである。あんなぬいぐるみの中に人が入って、アニメから出て来た様な動作をして、それに何故人気が集まるのか?新聞やテレビで、”タマ駅長なんて馬鹿げている”とか、”ユルキャラなんて馬鹿げたことで客集めをして恥ずかしくないのか”とか、その様な意見が全く出ていない。日本語の中に、”大人げない”という批判を封じる言葉が用意されているからか。
その”私が馬鹿げたと感じる”様なことが頻繁に起こる理由を考える。
それは、日本人は一般に他人の言動や行動に対して明確に反対意見を述べることが少ないことである。その行動規範は、日本文化の根底に、”他人を指さして(比喩的)何かを批判すること”が、絶対悪であるという暗黙のルールが存在することに由来すると思う。失敗や怠慢、不必要な行為などであっても、その行為の主である人と関連つけて批判するのは悪なのである。従って、批判する場合は全て、”環境、制度、政治”など人の周辺に向けられる(補足1)。
しかし、日本人の心の中に直接的な批判(個人批判など)がないかと言うとそうではない。それは、通常陰でひそひそ行なわれ、表で出ないので反って過激なものとなる。作家の百田氏が自民党の勉強会で、沖縄の基地問題について過激な発言をしたことが話題になっている。これも、たまたま表に漏れてしまったから大問題になっているだけである。陰の出来事で終わるなら問題にはならないし、この種の沖縄の新聞などに対する批判は、国内では日常茶飯事だろう。(補足2)
何かが流行したとすると、批判が現れないために、それは不思議なレベルまで巨大化する。つまり、日本では多くの現象は“バブル化”して、その後“バブル崩壊”するというパターンを示す。言霊信仰のある日本では、標語なども流行し「言論バブル」を担う。例えば、過去スローガンとなった、富国強兵や八紘一宇と言う考えも、反対者が国民の数十パーセントはあったと思うが、国内を制覇するレベルのバブルとなった。そして、それは戦後潰れて、非武装中立や非核三原則などにとって代わられた。
与謝野晶子が敢然と、「君死に給うことなかれ」と詠んだのは、この日本文化に反抗して行なわれた。そのような行為に特別の勇気が必要な様では、そして当たり前の気持ちを詠んだだけ(補足3)なのに、その歌が永久保存されるほど有名になる様では、日本は何時までたっても文化的言論封圧の国ということになると思う。
補足:
1)宝塚線の脱線事故が、運転手が電車運転の資質に欠ける人だった。しかし、「その人を運転業務につけた事とそれに携わった人」を批判する議論は殆どなかった。それよりも、ATMの問題、過密ダイヤ、業務員の教育などの問題の議論に終始した。
2)その百田氏の「沖縄の新聞二つを潰すべきだ」という言葉が、“言論の自由”との関連であるまじき発言だと批判されている。百田氏が新聞社を潰すことなど、どう考えても出来ないので、単に愚痴を漏らしただけである。そんな批判をする野党や沖縄の人たちの知性を疑う。
3)誤解があるといけないので、補足します。ここでは、この考え方(反戦)の支持・不支持を議論していません。弟の命を大切に思う普通の感覚から、反戦を詠ったものだということで、引用した次第です。
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