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2016年9月24日土曜日

科学と技術の融合について

1)科学技術という言葉は誤解を招きやすい。元々科学と技術は一体の関係にはない。科学は、自然や自分自身を含めてこの世界の成り立ちや本質を考える哲学の一部であり、従って、役に立つとか役に立たないとかという価値観には馴染まない。一方、技術は人間や社会に役立つ新しい物やシステムを作ることや、その効率を高めることを目指す。勿論、人間は自然の中に生きるのだから、科学的知識は技術開発の基礎になる。(補足1)

自然科学は、ギリシャ文明においては哲学の中に含まれており、自然哲学という呼び方がなされていた。(補足2)当時の哲学はあまり分化が進んでいなかった為、プラトンの弟子であるアリストテレスは、所謂哲学(存在、認識、倫理など)の他に広範な自然科学的考察を行っている。

知識が高度になるに従って哲学の分化が進み、各分野の専門家が生まれた。それら専門での発展とそれらの統合により、人類は高度な文化を築いてきた。そのプロセスの中で自然哲学は、自然科学と呼ばれるようになった。そして体系的な自然科学の知識を基礎に、技術開発を目指す専門家も分化のプロセスで生まれたのだろう。(補足3)ここで大事なことは、「専門的知識の恩恵を社会が受ける場合、その専門の社会に於ける位置づけを正しく行う能力をその社会のリーダーが持たなければならない」ということである。

2)科学が現在の姿まで高度に発展したのは、技術開発を念頭においたのではなく、哲学の一環として行われたからである。「真実と論理に絶対の価値を置く人の集まり」を作ることで、緻密に科学的成果を積み上げるシステムを、利益とか愛憎の渦巻く人間の世界の中に作った。この科学の遺伝子が混沌とした人間界に生まれたのは奇跡だと思う。もし、利益や人間関係が科学的議論の過程で入り込むようなことになれば、科学の萌芽は生まれなかっただろう。「学問の自由」という概念も、政治や経済などの現実の人間界の侵略を、聖域としての学問(科学などの哲学)を守るためにできたのだろう。

一方技術の基本的発明は、中国で始まった。火薬や紙などの発明である。しかし、中国で高度な技術の発展がなかったのは、科学がなかったからだと思う。それは、役に立つことを直接考える姿勢では、大きな技術開発の流れ(遺伝子)を作れなかったことの証明である。

科学と技術が分化し発展の軌道に乗ったのち、産業革命後の“近代科学技術文明”の発展プロセスにおいて、両者は蜜月関係とでも言えるほど近くなった。その結果、一般には科学技術として一括りに理解されてきた。科学者に向かって「あなたの専門はいったい何の役にたつのですか?」と聞く場面をテレビでよくみる。科学と技術の本質的違いが一般に理解されていないのは、マスコミや政治の分野の人たちが理解していないことが原因だろう。(補足4)

3)純粋に哲学として発展した科学だったが、科学技術と一括りにされて経済や政治という利益や権力の世界と密に接触し、自然哲学としての科学の遺伝子も働かなくなり、進むべき方向も歪められた。科学の進むべき方向は、政府の支出する予算や企業が出す寄付金により決められることになったのである。

そして、科学の発展は人類の知の拡大であるから、それを国家が援助するのは当然であり、できるだけの予算をつけるべきであると考えられてきた。また、新規技術の開発は国家経済に必須であるから、その援助も国家の方針としてなされてきた。そして、科学のことがよく分からない一般大衆を代表する政治家たちにより、技術開発の一貫として科学の支援が行われた。

哲学が古代ギリシャにおいて、貴族社会により支援されたことと対照的である。貴族には知を愛する(哲学:phil= 愛する、sophy=知)感覚があっても、一般大衆には何時の時代でも利を愛する気持ちしかない。科学と民主主義は相性が悪いのである。

つまり、科学と技術という本来人間が別の姿勢で向かうべ領域を、政治と経済が乗っ取り融合した結果、両分野は政治と経済の意図する方向に大きく発展したのだと思う。ノーベル賞はその流れに棹さすのではなく、加速する役割を果たしたと思う。(補足5)

経済が資本主義の発達により、株式会社という名の法人(つまり資本)は自然人を支配するようになった。株式会社は資本の論理で動き、決して自動的に自然人の幸せを目指すものではない。それは昨今の急激なグローバリズムの”副作用”が示している。グローバリズムは本来巨大資本の意思で始まったことであり、国家の壁で囲まれた各国民のために始まったのではない。資本による科学の乗っ取りも同様である。昨今の“科学的”成果が将来人類にもたらすものが、発展なのか破壊なのか良くわからなくなったと思う。

例えば、遺伝子工学や一旦分化した細胞を初期化する技術の発展は、生と死の関係を変えつつある。あたかも、死の克服が人類の究極の課題かのような錯覚を人々に与えてしまったと思う。また、宇宙空間での現象の科学的解明とか、宇宙の謎の解明とかいう科学の名でなされる膨大な事業は、科学というより国家が進める軍事技術開発である。科学技術の発展と人間の未来について、真剣に考える時期である。

補足:

1)大学では、技術は工学部において、そして、科学は理学部において研究される。
2)理学博士の称号を持つものは、ph. D. (Doctor of Philosophy;つまり哲学博士)を名乗る場合がある。
3)古代ギリシャのアルキメデスは、科学者であると同時に技術者であった。アルキメデスの原理で有名である。
4)9月11日のそこまで言って委員会で、ゲストのロボート・ゲラー氏が、「先生の研究は何に役立つのですか」と聞かれて、説得力のある答えができなかった。「基礎科学なので」というところだけで十分なのだが、それでは納得してもらうのは困難であった。その場面では“特別に”ギクシャクした会話が交わされていた。質問の主は素人であったが、その他の出演者は政治評論家など一応の知識人レベルにあると見做される人たちであったが、このやり取りに口を挟める者はいなかった。
5)イグノーベル賞というのがある。昨日のNHKでその候補として紹介されていたのが、総合大学院大学の助教の「カラスに方言があるか」という研究である。予算が集められずに苦労している研究者の姿は、この興味ある科学的課題が政治や経済の意思から遠いことを示している。ノーベル賞のパロディーといわれるが、本来の科学的興味に近いのはイグノーベル賞の方かもしれない。ノーベル賞の受賞基準である「人類の役に立つ研究」は、決して自然哲学の視点ではない。

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