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2016年9月28日水曜日

社会の中で困難な状況に生きる人にかけられた罠

1)人間の感覚は変化を察知するようにできている。その変化が短時間で生じると、強く感じそれに対して強く応答する。逆に時間当たりの変化率が小さいと、最終的に大きな変化であっても気がつかないことも多い。因みに、この時間変化の割合(勾配)を時間での微分と言う(補足1)。これは人間だけでなく、カエルでも他の動物でも同じだろう(補足2)。その事実を十分頭の中に叩き込んでいないと、状況変化についていけないことになる。

カエルなどの場合は、温度とか食料の有無などの生命維持に関係した外部環境変化が自分の周りの変化だが、人間の場合は社会の中での自分の置かれた環境変化が主な自分の周りの変化となる。従って、その変化は複雑であり、客観的な記述も困難である。

環境の変化に対応できない例として頻繁にマスコミに流れるのは、一流のスポーツ選手や芸能人が、その絶頂期の華やかな時代から急激に人気や収入が下降する場合がある。その時、薬物に依存したりしてその状況変化に対応できないという話が、屡々報道される。またもっと一般的な例では、全ての人は老化して死を迎えるプロセスにおいて、バリバリと働いていた頃の状況と比較してその差を強く意識し、その後の人生を暗くする事態に陥りがちである。客観的にみて相当恵まれていると言える場合でも、下り坂の場合には何事にも意欲を失うこととなり、その結果、更に下り勾配を急激にする結果となる。

その時の罠の一つは、自分の下降しつつある人生の情況を含めて、全ての現実から逃避することである。アルコールや薬物に嵌る人も多いだろう。全国にあるゴミ屋敷の主も、現実逃避の結果だろうと推測する。もう一つの深刻な罠は、現実を改善するのではなく、自分の優位を他との比較において探し出そうと精を出すことである。

2)この様な情況からの克服法は、変化に捕らわれずに現実を直視し受け入れること、或いは同じことだが、原点に戻ってそこから(その視点から)これまでの全体を改めて見ることだと思う。虚心坦懐に自分のおかれた情況とこれまで歩んだ道を振り返り、それの延長上に現在の自分があり、その全てが「自分の生」であると理解したとき、そのまま受け入れることが出来る可能性が大きくなるだろう。また、受け入れるしかないと覚悟が決まるだろう。そして、その理解と受容の上に、次に取るべき行動を考えるべきだと思う。

ここで原点とは、世界には自分と“自分を取り巻くその他”があり、実在すると確実に言えるのは自分だけであるということである。従って、自分の主は自分自身であり、自分をこの世界でどう行動させるか(自分がどう行動するか)が、唯一自分に課せられた問題である。ギリシャ時代に偉い哲学者が「無知の知」と言ったが、そこから人間の認識は現代まで一歩も進まず無知のままである。神がこの世を作り賜うたという人(その教徒は神であるというかもしれない)もいたし、神は死んだという人もいた。また、現代科学が「万物は素粒子から作られている」という理論に到達したとしても、それも真理とは言えず仮説という偉大な想像に過ぎない。

事実の第一は、「考えることのできる自分が、現状さしあたり生物としての時間を過不足なく、そして美しい地球という星に存在する」ということである。それ以外は、絶対というものは何もない。それは近似的に、仏教でいう「空」という概念だと思う。「生き、考え、行う」のは自分自身であり、決して他者ではない。(補足3)。それが、「煩悩即菩提」の境地なのだろう。

他と比較して自分の待遇が悪ければ、良くしろと主張するのは当然である。しかし、自分の待遇がわるいことに囚われてはならない。ゴミ屋敷の主人も薬物依存症の人も、その囚われ人だと思う。その場所には鍵もなにもない。自分の足で簡単に歩いて出られるのにも関わらず、囚われ人になっている自分に気づいていないのだろう。

3)西洋人は彼らの宗教と関係して、多くのことを真実の中に組み込み、その成り立ちと運動のメカニズムを解明して成功した。それは、原点に留まっていた東洋人に比べて、偉大な科学技術文明を築いた。それは、誤解を恐れず書けば、偉大な賭けに勝利したようなものであると思う。その賭けに後出しジャンケンのように参加して、東洋人を含めて人類全てが利益を得た。

西欧人はこれまでの成功体験から、客観的という言葉を安易に使う。法と正義という言葉も簡単に受け入れる。全て存在の上で確かなのは自分だけであるという、彼らの祖先に当たる偉人の言葉を忘れている。法も正義も、権威と権力を備えた絶対者がいなければ、何の意味もない。

「法と正義」を信じることは、「権威と権力」を前提としているので、法と正義を前提に生活することに慣れた人には、「権威と権力は、どこにあるのか?」と疑問に感じる感覚が萎えている。その結果、多くの人にとって自分が自分の主ではなく、「法と正義」が主であると勘違いしてしまう。そして、「法と正義」を勝手に設定し利用する悪しき人々の罠に嵌っている。

人間は社会を作って生きている。そして、教育の段階で「自分を自分の主人としてはいけない」という滅私を強いられる。しかし、滅私は社会の罠である。一員として自分の意思で社会に参加しているという知識と自負がなければ、まともな社会人ではないと思う。

補足:
1)ある量や強度の微小時間での変化をその時間で割り算した値をその量や強度の微分係数という。その量や強度をグラフにした場合の勾配のことである。正しくは微分係数と書くべきだが、略して微分と書いた。
2)「アハムービーとゆで蛙理論と日本の対米従属姿勢」という題で、世界の趨勢と逆行してまで、ズルズルと対米従属姿勢を深める政府の姿勢を批判した。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42950672.html
3)仏教の素人なので、偉そうなことは言えないが、この“独力で行う”というのが、仏教の本質だと思う。そう考えると、阿弥陀信仰の浄土真宗は仏教ではないということになる。

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