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2019年6月20日木曜日

言葉の進化論(2):言葉の壁について

先の投稿文(言葉の進化論(1))で、言葉が人間社会の生成と進化と同時に、発生進化したというモデルを提出した。そのモデルを用いると、多くの言葉の機能とその限界に気づく。今回の話は、言葉は社会の内部でスムースに通じるが、その外側には「言葉の壁」があるという内容である。

1)先ずその一例として、丸山穂高議員の失言?を考える。彼は酒に酔って自分の心の内部にある「女を買う云々」という言葉を、外界にストレートに出してしまった。本来どうでも良い発言だったが、政治家として重要な発言(補足1)を攻撃する援護射撃として用いられた。

つまり、彼の本能に由来する心中をストレートに言葉に出せば、社会生活に支障を来すのである。これを、「個人の心の中と社会の間に言葉の壁が存在する」と、ここでは考える。(補足2)その原因だが、言葉の進化論(1)で述べたモデルを想起すれば、自明である。

言葉は、①社会の中で②社会の維持・発展のために③社会とともに発生し発展したのであり、個人の心の中を外部に発信するために出来たのではないということである。(捕捉3)

2)もう一つ例を挙げる。それは、哲学の授業か何かで出てきそうな疑問文「戦争で敵兵士を撃ち殺すことは悪なのか?」を考える。先ず、戦争で敵兵と遭遇したときの状況を想像してほしい。相手を撃たなければ、こちらが撃たれるという状況(或いは世界)は、言葉を用いて議論できる世界ではないことが直ぐ分かるだろう。

また、戦争で敵兵を殺すことは、自分たちの社会を防衛することであり、兵として当然の行為である。しかし、何の躊躇もなく「戦争で敵兵を殺すことは善です」と答えられる人は、殆ど居ないだろう。その心理的抵抗は、上記疑問文が言葉の壁(敵と味方という二つの社会の間にある)を跨いで問題設定されていることによる。

この場合の原因も、言葉の進化論(1)で述べた言葉の発生と進化のモデルを考えれば自明である。つまり、自分の所属社会の発展、繁栄、永続が、そもそも言葉の目的であるので、敵である異なる社会と自分の社会を跨いで文章を作ると、言葉が通常の意味を持たなくなり、スムースに理解されないのである。

3)結論:

自分の社会と対立する社会(あるいは他の社会)の間には、言葉の壁が存在する。自分の社会を国家とみなせるような言葉の使用では、仮に素晴らしい翻訳があったとしても、言葉の壁による障害を受けるのである。

この言葉の壁が取り除けるとしたら、それは国家の間の境界を取り除いたときだろう。この壁は、文化の違いに由来するのではなく、言葉に本質的なものである。

学校などでの言葉によるイジメも、社会の外に排除された少数派に対する、壁を超えた言葉の使用である。それは社会の内部の言葉による団結であり、外へ向けた攻撃の反作用を利用してなされることが多い。従って、それは元々言葉の本来の機能として含まれている。

以上から、言葉の壁は社会の壁である。社会の内部の維持・発展のために発生進化したという私の言語発生と進化のモデルにより、言葉の機能と正しい解釈が可能になると思う。

補足:

1)「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と元島民の訪問団長に質問したのは、国後島の訪問団の意味を考えさせる取掛の為だったのだろう。従って、何の問題もない。恐らく、国後返還の為の運動の一環として行なっているとしたら、訪問団の運動は無意味であると指摘したかったのだろう。

2)丸山議員の"品の悪い言葉”も、そのような行動を一緒にする仲間内では問題とならない。それは、その仲間を含めた小さな社会の中の言葉の使用だからである。

3)言葉は心の中を直接他に伝える手段ではないが、心の中の考え(本音)を反映する。そして、我々は社会の中では、建前でコミュニケートする。つまり、言葉がスムースに自分の心の中から相手に向かって流れるわけではない。この本音と建前の乖離は、言葉の壁を乗り越えて対話するための本質的な乖離である。国家の外交も同様である。

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