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2019年6月25日火曜日

スイスの「安楽死」と日本の「持続的深い鎮静」

先日(6月2日)NHKスペシャルで、スイスで安楽死をした人に関するドキュメンタリーが放送された。多系統萎縮症(MSA)という難病に罹患した方である。何時かはこの安楽死の問題を考えて、ブログに書きたいと思っていた。

人は動物であり、出来るだけ生き続けるという強烈な欲望を本能としては持っている。それはあらゆる生物に共通の性質だろう。その一方、人は高度に精神的な生物であり、自殺による死亡率が高いことが他の生物にない特徴である。現代の社会生活は、人間生活のオリジナルな生活形態から大きく離れることになった。生物としての人間は、その生活形態との矛盾を今後多く抱えるだろう。安楽死の問題はその一つだと思う。

スイスと日本で行われている表題の行為は、かなり違うがともに自殺幇助に近い。両者の本質とその間の違い、安楽死が医療の現場で認められた時に、どのような影響がでるかなどを回を分けて考えて見たい。今回は、上記の「スイスの安楽死と日本の持続的深い鎮静」について、現状とその問題点や疑問点をやや羅列的に書いてみる。最後の部分で簡単に、日本の「持続的深い鎮静」を行う条件などについても書く。

1)安楽死は、今やかなり多くの国で行われているが、外国からの希望者を受け入れているのはスイスのみである。何故、彼らは文化の異なる国からも、安楽死希望者を受け入れているのか?彼らはヒューマニズムという観点から行っていると言うだろう。しかし、それを行う団体には大きな収入を得る手段となっていることも事実である。

何事でも、その解釈には、ふた通りの道がる。一つは:プロセスを論理的に追いかける方法であり、もう一つは:結果において誰が得をするかを見ることである。前者には論理の誘導が入り込む可能性があるので、後者の方が確かなことが多い。勿論、得とは「最終的な得」のことである。現時点の判断ではあるが、私はそれを許可するスイスと言う国は、ヒューマニズムに欠けた国だと思う。(補足1)

NHKで放送された限りでは、患者の安楽死を望む動機とその意思の確かさ、更に、家族の了解を慎重に確認したのちに、安楽死という自殺幇助行為が行われるようだ。しかし、スイスのその団体は、他国からの取材を認め放送されることを許可したのである。それは、国際的非難を避けるために、しっかりとした手順を踏んでいるとの印象を与えるための宣伝行為に見えなくもない。

つまり、この自殺幇助、その報道や出版も、ビジネスとして行われた面があることに注目したい。勿論、スイスの自殺幇助にはヒューマニズムと個人の人権という後ろ盾がある。また、報道や出版には「言論の自由」や人々の「知る権利」という後ろ盾がある。

しかし、最終的には人の命が奪われるという点と彼ら当事者にかなりの収入をもたらしているという結果の重みを考慮すべきであり、間違いなく彼らの行為は悪のグレイゾーンの中に一歩踏み込んでいる。従って、これらの経費や収入等の公開をすべきである。勿論、一定の報酬は得ることに問題はない。

2)一年以上前に、小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科院長)という人が、「安楽死は安楽に死ねない死」と題して、このスイスの団体の行う自殺幇助について批判的なブログ記事を書いている。

小笠原氏は、スイスのデグニタスという団体の行う安楽死について、以下のように記述している。「あくまで「自殺幇助」ですから、医師は直接的な行為はせず、死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。」(補足2) https://ironna.jp/article/8622?p=1

これはNHKで放送された現在のプロセスとは異なる。番組では、輸液装置を用い、最後の意思を確認したのち、薬液導入の栓を自殺する人が自分で開ける場面が放送されていた。その後30秒で意識を失うことが、事前に本人に知らされている。(補足3)

小笠原氏は続いて、日本の緩和医療では、安楽死と似ている「持続的深い鎮静」を、もっと慎重に行っていると主張している。つまり、その「持続的深い鎮静」は、①耐え難い痛みがあり、且つ、②死期が近づいた患者を対象に行う医療行為で、本人及び家族の同意を得て行われる。「持続的深い鎮静」を行うと、患者本人は死ぬまで昏睡(こんすい)状態に陥る。

今生の別れの時期と肉体の死に時間差があるため、家族は「自分たちが殺してしまった」と後悔する場合もあり、尋常な看取りではない。小笠原氏は、「“持続的深い鎮静”も、多くの人に迷惑をかけながら死んでいくことに違いないので、これを最後の手段であるとは認識ながらも、“抜かずの宝刀”と呼び、抜かないことに意義があると考えています」と言う。

3)しかし、テレビで放送された範囲では、小笠原氏が解説する「持続的深い鎮静」と患者の死へのプロセスそのものはほぼ同じに見えた。「持続的深い鎮静」では医者が患者に麻薬などの液体を血管に導入するが、スイスでの安楽死では最後の栓を開くのは本人である。

この生物学的な死へのプロセスに差はないが、スイスの安楽死の場合は行為の主体が本人であり、日本では医師或いは看護師などである。どちらが殺人により近いかと言えば、それは日本の「持続的深い鎮静」の方だろう。更に、思慮深いひとなら、この「持続的深い鎮静」という呼称には、多くのインチキがかくされ得ると直感的に感じるだろう。

もう一つの違いは、スイスでは肉体的所見として、死期が迫っているという条件がなくても、行われることである。しかし、その場合でも、希望者は精神的死期が来ていると証言するだろう。一方、日本の「持続的深い鎮静」の方では医師団は、死期が迫っていると言うだろうが、その判断もそこまでの治療も、ほとんどの場合同一の医師団による。

以上の比較でわかるように、この「持続的深い鎮静」こそ、闇の中にあると思う。少なくとも、「持続的深い鎮静」には、第三の目が注がれる必要がある。例えば、その一週間程度前に、所属学会も医局もすべて異なる医院への転院し、そこでそれを行うべきだと思う。

その前に、日本の行政はやるべきことがある。この種の「医療行為」が一般的になる前に、全ての医療データの一元管理(独立機関によるクラウド管理)を行い、ある患者がどこの病院で受診しようとも、その医療データ全てが共有できるシステムを構築するべきであったと思う。

次回は、保険制度や年金制度など行政との関連を書きたいと思う。

補足:

1)そのように感じるのは、一つにはスイスの銀行は犯罪者が預金を自由にできる国であるからだろう。兎に角、金銭的利益を追求する文化がこの国にあるようだ。なお、以下の全文において言えることだが、とりあえず結論を出して、前に進むことは現実問題として考える場合必要なことである。全て「らしい」で何が言えるのかという意見はあり得る。しかし、本を仮に読んだとしても、その本の評価が100%できる訳ではない。(例:吉田清治の慰安婦に関する本や、本田勝一の記事は、結局嘘が活字になっていた。)つまり、我々は差し当たりの知識で前に進まなければ、凡ゆる場面で一歩も進めないことになる。この弱点を埋めるのは、異なる大勢と議論することである。オープンな議論が真実に近づく唯一の方法であるのは、科学の世界でも、政治の世界でも同じである。しかし、政治の世界にはこの考えがない。それは、密室で誰かがこの政治を牛耳っているからかもしれない。(馬渕睦夫氏のThe Deep Stateを思い出す。)

2)小笠原氏のブログでは、スイスのデグニタスでの安楽死の場面を以下の様に記して居る。「死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。飲み切らないと死ねません。一瞬では死ぬことができないので、途中で飲めなくなる人もいると思います。中途半端に毒を飲んでしまったら、死ねない上に悲劇が待っていることでしょう」と書いている。 小笠原氏がスイスでの安楽死批判を、この記述に頼って居るところがある。

3)コップに薬液を入れて飲む方式は、過去行われた可能性がたかい。何故なら、そのような記述が宮下洋一氏による前著「安楽死を遂げるまで」に書かれているようだからである。この肝心の場面での方法改善により、デグニタスはNHKという主要メディアに公開しても、団体の主張に理解が得られると思ったのかもしれない。

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