馬渕睦夫氏が林原チャンネルで女性宮家創設問題を議論している。女性宮家の創設を主張している人は、女性天皇を次に皇位として実現し、その次に女系天皇を誕生させ、最終的に天皇という日本に特別の文化を消そうと企んでいると指摘している。(表現は関節的だが)https://www.youtube.com/watch?v=2ZCOq7amniY&t=318s
私自身も、その大筋には同意するのだが、講演最初の方で馬渕さん(補足1)の「日本の文化とはひとえに天皇なんですね」という言葉に強く反応して、コメントを書いた。それに対する反論があり、その中の中心的なものに答える形で、今回一つの記事にした。
1)私が最初に書いたコメントは:
馬渕さんが危惧されているのは、日本政府に女性天皇、或いは、女系天皇を容認する動きがあるということだと思う。女性天皇又は女系天皇になれば、日本国民にとって大事な天皇の役割が果たせないのなら、その理由を明確に言ってほしい。 現在、日本は国民主権の立憲国家である。天皇の「本来の役割」が日本国家の基本に関係するのなら、上記議論の結果を憲法に反映すべきである。女系天皇がその地位にふさわしくないのなら、それを憲法に書くべきである。皇室典範のレベルではない問題なのだから、堂々と改憲論議として、話をしてもらいたい。陰謀と対決するのなら、真正面から行ってもらいたい。
このコメントに対する反論として、注目すべき意見があった。その内容は、以下の通りである。
「皇室典範のレベルではない問題」とおっしゃるが、「日本国憲法」と「皇室典範」は、今の時代は、言わば「並列」のもので日本国憲法の「下」に有るものでは有りません。「並列」なのも日本国憲法下の話で、「大日本帝国憲法」下では何物にも犯されない「孤高の典範」だったことを知らないようですね。考えてもごらんなさいよ。天皇の地位をどなたがお継ぎになるかという話に皇族以外が口を挟む不敬など存在しなかったのです。日本はこの時代を取り戻さなければなりません。
この方は、皇室典範は日本国憲法と並列であり、下に有るものではないと書いている。これは時代錯誤である。日本国憲法は昭和21年に制定され、その第二条に皇位継承については皇室典範に定めると書かれており、その後昭和22年に皇室典範が制定されている。大日本帝国憲法の時代には、確かに皇室典範は憲法から独立していた。それは、憲法よりも天皇が上位の存在だったからである。
しかし、現在の憲法の下では、「天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)のだから、憲法第二条に引用の皇室典範は憲法の下位にある法令の一つにすぎない。この議論のスタート地点で、上記コメントを書かれた方は間違いを犯しておられる。現行憲法に不満があるのは理解できるが、そして、別の角度(憲法9条)から私も現行憲法には不満があるのだが、その解決は憲法の改正によるしか無い。それ以外には、暴力革命、テロ、或いはクーデターの類の議論を無視した方法しか無いので、それを考える方々とは文字通り議論しても仕方がない。
重ねて云うが、私は現行憲法を完全に支持しているのではない。しかし、同時に私は、現在の日本国家は日本国憲法を最高法規として持ち、日本の国家形態を変更するには、この憲法を改正するしかないと考えている。政治は連続的に変更すべきであり、革命やテロ、クーデターの類によるべきではないというのが、私の基本的考えである。ただ、このままでは日本国民大半の生命が危機に陥るという場合、クーデターによる政変が起こるだろう。しかし、それには多大の犠牲を伴うので、平時の国民の議論と努力が大切である。(補足2)
2)二番目に書いたのが、表題に書いた馬渕さんの日本文化論に関するものである。
馬渕さんの「日本の文化とはひとえに天皇なんですね」という決めつけには同意しかねる。日本の文化とは日本国民の生活様式全般に関する総称である。あくまで現在日本の主人公は日本国民であり、天皇ではない。勿論、日本国民の多くの精神的中心に天皇がおられるのかもしれない。それは現在でもそうなのかどうか、議論を要することであり、決めつけることではない。もし、馬渕さんの仰るようなら、日本国憲法は日本の文化と矛盾する。先にコメントしたように、改憲の話として天皇を論じてもらいたい。
これに対しても、1)に引用したコメント氏は、以下のようなコメントをくれた。長いので少し短縮して以下に示す。詳細は最初に引用のyoutubeでご覧ください。https://www.youtube.com/watch?v=2ZCOq7amniY&t=318s
日本国民の生活様式全般を古代から導いてきたのが歴代の天皇だ。天皇の命でいろんなことが行われてきたが、それが現代の日本文化に与えた影響は計り知れない。そして天皇は国民を「大御宝(オオミタカラ)」と呼んで保護した。これが日本の「国体」です。天皇を離れて日本文化を語る事は出来ません。「現在日本の主人公は日本国民であり、天皇ではない」というお話ですが、これはGHQに押し付けられた日本国憲法での話です。
「民主主義」が、有史以来最高の統治形態だと信じているのかも知れないが、これは西洋の考え方です。私達日本人は縄文からの天皇を中心とした国家形態(国体)を何千年と引き継いできました。それが出来たのは、簡単に言えば国民にとって「いごこちがいい」形だったのだと思います。この七十数年外国からの強い干渉を受けて必ずしも日本の本当の姿を国民が認識してない事が有るでしょうが、馬渕先生がおっしゃるように、本来は「日本文化はひとえに天皇なんです」。
この考えのエッセンスの大部分は理解できるが、同意できない部分もある。それは、「これが日本の国体です」という部分が、現在形であることである。現在日本の国体(国家形態)は、日本民族にふさわしいかどうかは別にして、日本国憲法に記述のある通りであり、天皇を日本の統治者とする明治以降昭和20年までの国家形態ではない。
この方の様に、現在の日本の政体を仮の姿と見ている人が多い。それは、日本の一部は未だ戦時から脱却していないことを意味している。それが、諸外国により「日本は未だに戦争の結果を受け入れていない」と言われる所以だろう。その責任が、戦後の吉田茂以来の自民党政権の嘘と建前で塗りつぶした政治になくて、何なのか。(これは言ってみてもしょうが無いのかも知れないが、その根本に議論のない日本文化、言語がまともに使えない日本語の言語空間という、日本の病根がある。後ろで引用の補足2参照)
日本文化の継承というが、70年以上継承してきた果が、この体たらくではないのか。
本題の国家形態に話を戻す。コメントされた方の支持される古来の天皇を中心とした国家形態が、”現在の日本民族”にふさわしいとは、必ずしも思わない。国民主権の日本とどちらが、グローバリズムの将来に向けて日本国民にふさわしいかどうか? それについての国民全体の意見は、一票の格差全廃をすること、地方政治と中央政治を完全に分離することなどを実施しないとわからない。先ず、その政治改革が第一だと思う。
3)日本の政治形態の歴史と将来について少し:
明治から昭和初期までの国家の形態は、国家権力の在処がわかりにくく、それが昭和の敗戦と300万人という犠牲者を生む原因となった。https://www.hns.gr.jp/sacred_place/material/reference/03.pdf
つまり、明治憲法の第一条に「天皇が統治する」とあるものの、実際は天皇を輔弼する内閣に実権が有るように見える。しかしその一方で、権力の大元の軍隊は天皇直属であり、訳のわからない国家形態であった。(補足2)私は、権力の在処が明確な方が、政治形態として良いと思う。それは訳のわからない連中に乗っ取られないためである。上記コメントの主は、天皇制が良いとお考えのようだが、権力の在処が曖昧なままで良いと考えておられるのだろうか?
更に遡って、江戸時代の日本では、最高権力を江戸幕府が持っていた。その上の権威として天皇が存在するものの、封建制という地方分権的な政治形態であり、日本国全体が暴走するような国家形態ではなかった。封建制はまっぴらだが、その地方分権には学ぶべきではないのか。300年以上の安定は、国家権力の在処が明確だったからだろう。
私も、現在日本の民主主義政治が最高の政治形態とは思わない。民主政治が衆愚政治に堕する可能性が大きいことは、多くの本にも書かれている。その点に関して考えたところを、既にブログ記事として投稿した。概略は補足(3)に書いた。詳細は、以下のブログ記事に書いた。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/07/populism-and-democracy.html
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/01/ii_31.html
ネット社会を迎えた現在、民主政治の真価が問われている。大勢の人間が公開で議論ができるこのネット空間を有効に利用して、知恵の集積を可能にし、それが政治に反映するシステム作りが出来れば、「無知なる者にも一人一票の衆愚政治」から脱却できる可能性がある。権力の在処が国民であり、その叡智が支配する国家の建設が必ずしも不可能ではない。地方分権と形で、国家を一般民の近くに移動させる。国民の間の議論が可能なように、そして、その中の優れた知恵が抽出されるようなシステムを、ネット社会を利用して作り出すのである。
ここで、民主政治に大きな進展がなければ、我々に未来は無いだろうと思う。天皇の皇位継承は天皇家に任せて、そちらの議論の方にエネルギーを使ったらどうかと思う。
補足:
1)馬渕睦夫氏は、元外交官。元ウクライナ及びモルドバ大使。「国難の正体」は、米国支配の日本の難しい状況について書いている。孫崎亨著の「アメリカに潰された政治家たち」の2冊を読んだのが、理系人間の私が政治経済関連でブログ記事を書く切っ掛けになった。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/02/blog-post_73.html 参照
2)因みに、この文章で「私は」を何度も用いた。何故なら、日本には主格をわざと省いて、発言をボカしてしまう文化がある。それでは議論が可能な言論空間は得られない。個人の自立なき日本文化の原点の具体例が、この「主格の欠如」である。日本文化を議論ができる文化にしないと、日本の復活はありえないと思う。youtubeのコメント欄では「言い合い」も結構あるが、それらは喧嘩の類であり、議論には程遠い。
3)だいたい、何故「輔弼」などという難解語を、もっとも大事な記述に用いるのか? これが、言語が通じない日本文化の典型的症例である。尚、余談だがイランの現在の国家形態は、この昭和初期の日本のものににている。大統領の上に最高指導者があり、イランの軍隊である革命防衛隊は最高指導者直属である。
4)民主政治が人間の作る国家の政治形態として良いかどうかは、国民が高い知識を持つように不断の努力をし、且つ、平等で独立した有権者としての地位を保てるかどうかにかかっている。個々の有権者にその能力が望めないのなら、民主主義は理想の政治形態ではないことになる。
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