1)ソウル大元教授李栄薫氏の講義の概要
今韓国で週間ベストセラーとなっているのに、「反日種族主義」についてという題の本がある。この本は、李栄薫(イ・ヨンフン)元ソウル大学教授ら6人の研究者が執筆したものであり、それは既に本ブログでも紹介した。
この本の著者の一人である李栄薫(イ・ヨンフン)元ソウル大学教授(李承晩学堂校長)により、youtubeに「李承晩TV」が開設され、日本に併合された韓国をレビューする動画が配信されている。昨日、「チャネル桜」により、韓国人が暴く反日韓国の嘘と題して、その第一回目が字幕付きで公開された。(韓国人が暴く反日韓国の嘘 -「李承晩TV」より- Part2「楯師団の慰安婦、文玉珠」) https://www.youtube.com/watch?v=wkDmu22L-NU
李教授は、韓国で二番目に慰安婦であったと名乗り出た文玉珠さんの生涯を、彼女の生前の告白を書いた本「文玉珠—ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私」(文玉珠、森川万智子共著1996年)などを参照しながら解説した。その “慰安婦の実像”は、私の記憶では、朴裕河さんの著書「帝国の慰安婦」で書かれているものに良く似ている。
それを李教授の言葉を用いて表現すると、「正式な軍属ではなかったものの、軍属に準ずる意識を持ち且つそれに相応しい待遇を受け、それに相応しい行動規範の教育を受けたと思います。」である。(動画32分あたり)
2)文玉珠さんの経歴概略(以下敬称略)
文玉珠の慰安婦としての数年間(3年ほど)は、世界戦争と貧困のなかで、売春婦、戦場における“銃後の母”(補足1)的存在、兵士との恋愛などが同居する(補足2)、過酷で近代社会の日常になれた我々の想像を絶する境遇であった。その中で李教授の語る文玉珠は、必死に、且つ、逞しく生きた。そして、その後の生活を支える財も蓄えた。
1946年に帰国後、28年間は料亭などで芸妓として生活し、その人生も豊かな時から悲惨な情況まで、浮き沈みの激しいものだった。12年間一緒に暮らした男に裏切られ、その男と自分の間に生まれた三人の子供を育てた。三人は成人した後、就職と結婚をして、普通に幸せに暮らしている(1993年当時)という。
その後、本妻のいる男性と知り合い、事情がありその子供も育てることになった。その子の浪費癖などで預金も家も失い、経済的に困窮するようになる。その男との関係もなくなり、彼女は一人ぼっちの立場になってしまう。その時、従軍慰安婦問題に関係してしまったのである。
1990年金学順という女性が元慰安婦であったことを公開した。挺対協(韓国挺身隊問題協議会)は、「挺身隊の御婆さん達は、世の中に出てください。日本政府に対して公的謝罪と賠償を要求しましょう」というような広告を全国に向けて放送した。
ある時、30年以上の知り合いのイ・ヨンナクという男(眞城李氏で退渓李晃(最後の字は氵に晃)の子孫)が「貴方は日本軍慰安婦だったと思う、真実を明らかにするのには大きな意味がある」と挺対協に名乗り出ることを勧誘した。「自ら連絡しづらいのなら、代わりに連絡してあげる」との話を聞いて、文玉珠は恥ずかしくて身が縮まるようだったと言った。
その男が文玉珠の前で挺対協に電話をかけた。二番目に慰安婦であることを告白した後、暮らしは一変する。文玉珠が放送に出た後、彼女の知り合いから批難の電話が殺到した。その後文玉珠は本当の意味で孤独になった。慰安婦時代の知り合いを訪問したが、その時も「姉さん、どうして今になって、自分の恥ずかしい過去を明かすの?」と叱責された。
3)挺対協は、元慰安婦の文玉珠氏を身包み剥いで崖に突き落とした
当時残っていた同じ境遇の女性たちは、李教授の試算では数千人(5000人以上か)生き残っていた筈だが、彼女らは全て息を潜めていた筈だという。それが素直な朝鮮民族の意識であると語る。恐らく世界中の国々でも、人は同じ様に思い反応するだろう。
挺対協は、「慰安婦だった事実はあなた個人の恥辱でも家族の恥辱でも村の恥辱でもない、それは日本が犯した戦争犯罪だった。それを暴露することであなたは自ら恥ずかしい過去から開放され、一人の人間として尊厳と名誉を回復することができる」と言って、慰安婦の告白を勧めて日本批判の最前線に立たせた。槍や刀をよける為の盾のようにも思える。
挺対協は、数千人の集団から理想論的甘言を巧みに用いて、数人を剥がし政治利用した。そして作り上げた主張は、正しいものなのか? 正しい主張なら、その様な盾として、旧慰安婦の人生を身包み剥ぐようなことは不要ではないのか?
文玉珠さんの心の底から絞り出したような言葉が、その本に書かれた内容、そして、李教授の講義の内容の通りなら、挺対協の云う慰安婦像は自分達の政治運動のために捏造したものに過ぎない。
慰安婦としての3年間は、家を家族にプレゼントする収入や日本軍兵士山田一郎との思い出はあったものの、売春婦としての仕事や兵士とともに戦い、そして山地を移動することなど、苦しい生活だっただろう。しかし、その後の45年間はそれとは切り離せない全体として、文玉珠さんの人生を形つくっていた。
挺対協の勧めで慰安婦であったことを告白した後は、政府から補助金をもらい住居も食事も無料で提供されたものの、それと引き換えに彼女の全人生が消されることになってしまったのである。文玉珠さんの残りの5年間の人生は、家族や友人から別れを宣告され、挺対協に政治利用される、悲惨なものだったに違いない。文玉珠さんはウィキペディアによれば1996年10月、72才で死亡している。
補足:
1)戦場の後方。直接戦闘に携わっていないが、間接的に何かの形で戦争に参加している一般の国民。
2)山田一郎上等兵と慰安婦としての藤原よし子の付き合いの中で、山田による4首のよし子を慕う和歌が紹介されていた。山田一郎はその後戦死したようである。文玉珠さんは慰安婦としての生活も、山田との付き合いで耐えることができたと云う。
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