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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

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2021年2月14日日曜日

ポリコレを武器とする世界の陰謀とその起源

1)民族、国家&国境という概念の発生

 

欧州中欧部には、農業に適した土地など、人類の棲息に適した土地が大きく広がっている。多くの民族が、農耕技術や運搬技術の発達や地理的な影響などを原因に、ユーラシア大陸内を移動して、生存競争を展開してきただろう。生き残りの方法として、共通の言語や宗教で団結し、集団を作ることは、広いユーラシア西部では必須だったと思う。生存競争とは、言うまでもないが、民族内での王位の奪い合いと民族間の戦争である。

 

民族がこのように大きな空間と人の流れの中で生じたとするのなら、島国には民族という概念は無い筈である。たとえば、日本を考えると、何時も同じ顔の人達がトップを目指して繰り返し争う時、言葉や宗教、文化でまとまったヤマト民族など、生じる筈はない。

 

亡き勝谷元彦氏は、著書「ディアスポラ」の中で、登場人物の諏訪に以下のように語らせている。

民族という概念は、19世紀になって初めて出来たのである。海にかこまれているという地理的理由から、「日本人」という考え方は自然に成立していたが、近代になって、国家として島から外に押し出していくにあたり、まとまりを作ろうと慌てて作ったのが民族なる言葉なのだ。 

 

ここで、日本人とは単に人間というくらいの意味であり、団結という意味合いはない。他民族と比較対立させる構図を、国民に意識させるために、ヤマト民族なる言葉がつくられたと言うのである。(補足1)

 

国家とか国境という概念は、民族よりも遥か後に生じた。アテネやローマなど温暖な地域では、それらの民族が都市を形成して、日常生活を護る区域とした。これら都市国家は、城と都市と国が同じ名詞で語られている。

 

もっぱら籠城戦の為の日本の城と異なり、ユーラシアでは都市全体を城壁で囲っている。経済活動が城郭の外にも広く広がっていなければ、当然、農業を行って食料の調達など十分には出来ない。城壁外では多くの民族が混ざって棲み、国境など無かったのである。

 

主権国家の枠組みが、国境という概念とともに明確になるのは、1648年のヴェストファーレン条約以降である。その後、市民革命を経て国民国家が成立し、多くの民族は国家をもち国境警備を厳格にするようになった。

 

その歴史の中で、国を持つことが出来なかった民族も多い。ユダヤ人や華僑など、地球規模に散らばった民族も多いが、多民族への同化や虐殺などで消滅した民族の方が多いだろう。(補足2)

 

2)ディアスポラとそのアイデンティティ

 

この苦難の歴史の中で生き残るには、離散民族(ディアスポラと呼ぶ)においては特に、人と人との繋がりが大事である。そのネットワークが強固であった人たちが生き残る。そのネットワークは、ユダヤ教などの宗教や民族の文化と不可分である。(補足3)

 

その土地の主なる民族との競合と彼らからの虐待の中で、アイデンティティを保持し生き残るには、強固な人と人のネットワークを、民族の文化と不可分な形で維持することが必要である。そのネットワークが目立つと、虐待の原因となる可能性が高いので、出来るだけ隠匿する方が有利である。

 

この人と人の固い約束を、無理なく普遍化する方法として、神との契約に転化することになったのが、一神教誕生のメカニズムだと想像する。つまり、神と人との契約は、人と人の繋がりのモデルである。例えば、キリスト教の神から人への愛(アガペー)は、人の間の愛のモデルであるのと同様である。(補足4)

 

別の表現では、神と人との契約は、人と人との契約を束ねるバンドである。神との契約を固く保持することで、信者同志が結束できる。宗教では、結果が前提と入れ替わる特徴を持つ。尚、聖典の中の律法や箴言は、国家に於ける法律のモデルだろう。(補足4)

 

このヤハウエ神の信仰の基本は、上述のように神との契約である。この天地を創造した「神」という概念と、「契約」という現実世界の概念との間に、ある種の不調和を感じるだろうが、上記のような発生の経緯を想像すると無理なく理解できるだろう。

 

尚、現代の人権尊重、民主主義、法定主義など、世界の骨格は、この一神教をモデルとして作られたと思う。

 

3)世界を支配する武器ポリティカル・コレクトネス

 

陰謀と計画は、多くの場合、一つ企みの両面を表現したものだろう。あるグループが、有限の資源のなかで、その他全体の中で生存するため、ある企みを密かに考えたとする。それをグループ内で計画(約束)と呼べば、その外では、陰謀と呼ぶ筈である。

 

厳しい離散民族として生き残ったマイノリティが、ある巨大な国家の殆どを支配したとき、つまりマジョリティを支配したとき、その伝統的手法は、政府の強力な統治と世界支配のための主なる道具となった。人種差別撤廃、マイノリティの権利拡大、女性差別反対などで、歴史や現状を無視した理想論を武器として用いるのである。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516667.html


その国際的なバージョンが、ダボス会議が主張する2050までのカーボンニュートラル政策や、最近言いだしたグレートリセットなどである。後者は、現代の資本主義の世界で主流となる、株主中心資本主義を、利益関係者資本主義に変更しなければならないという理想論である。

 

それら理想論は、国際的なバージョンを含めて、ポリティカルコレクトネス(ポリコレ)と呼べるだろう。それらは、世界の支配層が世界の人たちを煽動するための武器である。彼らは、同じ起源のひとたちなのだろう。


かれらの話は、目的地を主張する理想論ばかりであり、そこに至るプロセスに関しては誤魔化している。これらポリコレ、例えばカーボンニュートラルや地球温暖化説などは、世界の産業を自分たちの予定する範囲で独占しようとする単なる世界経済の支配のためなのか、グレートリセットという貧困化と世界の共産党支配のためなのか、私には未だ解らない。

 

彼らがグレートリセットの旗を振る時、理想主義者としての恐ろしい姿が見える。かれらは、無秩序にエネルギーを蓄積して、爆発を待っている。それは世界の終わりの神話を再現するためなのかもしれない。

 

 

以上で今回のエッセンシャルな話は終わりだが、直近の例を追加したい。それは、オリンピック関連で森元首相の発言に対する国際的にも執拗な攻撃があったことである。それは、男女差別撤廃というポリコレ御旗を掲げて、世界中から老人一人を袋叩きにする悍ましい光景を為した。彼は、単に日本社会での遅れた女性の活躍の実態を、素直に語っただけである。

 

もし、それがオリンピックとの関連で許すべからざることだというのなら、何故男女差別の強烈なアラブ諸国をオリンピックに参加させるのか?答えてもらいたい。人種差別というポリコレが政治の武器でないなら、何故中国はオリンピックを開催できるのか、答えてもらいたい。

 

(2月15日早朝、補足4の追加、「宗教では、結果が前提と入れ替わる特徴を持つ。」という文の削除;語句の編集)(コメント議論等、歓迎します。)

 

 

補足:

 

1)殆どの日本人は、自分たちを日本国に棲む一つの民族であると考え、且つ、上記文章の意味など簡単に理解できるというだろう。しかし、私は日本人の殆どが、民族間の生存競争を、理解していないと思う。何故なら、国防軍を持てない憲法を持つ異常が解らないからである。生存競争として頭に浮かべるのは、個人間の競争である。

 

2)たまたまある人のブログで知ったのだが、アルメニアという国の民も、300万人が黒海とカスピ海に挟まれた小さい地域にある住むが、同程度の人数が世界中にばらまかれているとしう。そして、第一次大戦中に150万人が虐殺されたという。(ウィキペディア参照)クルドやロヒンギャの民は、現在でも国を持たない悲劇の真っ只中にある。

 

3)現在でも、イスラムの民が厳格な慣習を守る宗教を信じ、シーア派とスンナ派などの区別をして争いの中にある。両派は考え方の違う二つのグループというより、互いに争う隣接する二つのグループの異なる名称として理解すべきだろう。

 

4)西欧の法は、ソクラテスの毒杯で分かるように、古代ギリシャの哲人達の時代に既にあった。ギリシャ・ヘブライ文明という言葉があるように、大きな枠で漠然と法の起源を語っていると理解してほしい。

 

5)一方、絶対王政の皇帝は、人と人との繋がりを破壊する。配下の支配には、愛ではなく恐怖を用いる。そこには契約も法も不要である。共産党支配の中国は、この形態に近い。

 

 

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