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2021年2月8日月曜日

森元総理の失言は日本社会の欠点に由来している

オリンピック組織委員会の森喜朗会長が2月3日、女性蔑視発言をしたとして非難され、その非難は国際的になっている。翌日森氏の謝罪があったが、今日現在でもマスコミなどで話題となっている。この件、日本の病根と関連があるとの指摘もあり、私も独自に文章を書くことにした。

 

問題となった東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏の発言を、ネットメディアのDailyが以下のように報じているhttps://www.daily.co.jp/general/2021/02/04/0014056469.shtml

 

日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会において、競技団体の健全運営を促す国の方針にならい、日本オリンピック委員会(JOC)が女性理事の40%以上の登用を目標とするなど、役員選考を見直したことに対して、(内部で)だいぶ抵抗があった。

女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。

 

読売新聞の2月5日の1面にこの発言の撤回が報道されており、そこに森氏の「(4割という)数字にこだわって無理をしない方が良いと言いたかった」という上記発言の動機が書かれていた。3日の発言としては、上記発言の根拠としてだと思うが、「女性は競争意識が強い。一人が手を挙げると、自分も(何か)言わなければいけないと思うのだろう」などもあったようだ。こちらの発言も同様に非難の対象になっているようだ。

 

この森氏の本音を分析した記事が、JB Pressというネットメディアの2月8日の記事に掲載されている。東大准教授の伊藤乾という方の話には、本質を突いている部分が存在する。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63975

 

重要な部分をまとめさせてもらう:“日本社会の伝統的な方針決定の方式は、ヤクザの方式とでも言える“トップダウン式”であり、議論でブラッシュアップするというものではなかった。いつまでもこの様では、日本に将来はない”である。(補足1)

 

2)非難されるべきは能力本位の人事が出来ない日本社会である

 

森氏の発言の主旨は、繰り返すが「(4割という)数字にこだわって無理をしない方が良いと言いたかった」である。つまり、女性か男性かよりも、十分な能力のある人材を選ぶべきだというのである。これは真っ当な考えである。

 

日本の社会は、能力のある女性を組織の上層に浮かび上がらせる機能を欠いている。森氏の問題発言とされる部分は、本音を漏らしてしまう老害の結果なのだが、その本質的原因は、上記機能を持たない日本社会と、国際関係を考えてか、女性4割という方針に固執する政府文科省に由来する。

 

繰り返しになるが、批判されるべきは、日本社会及び日本政府である。能力のある女性を社会の表舞台(或いは上層)に浮かび上がらせる機能を、自然なメカニズムとして日本社会が持たないこと、そしてその社会の改革を、これまで日本の社会及び政府が行って来なかったことである。

 

森氏が言った「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言は、森氏から見て、女性役員が、本質的でない議論を長々として困るというのだろう。それが本当であれば、これまで森氏が関係してきた組織において、無能な女性を数合わせのために組織の役員にしてきたのか、逆に男性の役員が無能で、ボスである森氏に唯々諾々の姿勢であったのか何方かだろう。(補足2)

 

その問題は、男女差別の問題ではなく、日本社会の各組織が、能力本位で役員などを選ぶ機能をもっていないことにあるだろう。

 

3)日本社会は西欧文化を消化不良のまま取り入れ、それに気づいていない

 

西欧社会の特徴は、日本と比較して個人が自立している点である。自立した個人と個人は、言葉で自分の意思を主張する。その中で、物事に対するより良い理解と問題に対する対策を考える。近代日本は、その論理を重視する姿勢を西欧から輸入して、自立した個人が形成する社会にふさわしい、「人権と法治」を社会の根幹に置くこととなった。(補足3)

 

しかし、それは現在の日本社会では猿真似状態である。日本の多くの公的組織はその機能とは関係の薄い個人的繋がりで組み上げられ、自立した“個人と法と論理”で組み上げられていない。その証拠に、政界や芸能界での地位まで、相続で手に入れている人が多い。そして、その特徴は私的組織である株式会社等にも見られる。それが、日本の低迷の30年の原因の一つであると以前指摘した。(補足4)

 

今朝のTV番組(グッドラック)で、誰かが「IOC会長のバッハ氏と直ぐに話ができるのは森氏だけであるとか、関係都道府県との調整の場面で、直ぐに知事と話が出来るのは森氏だけだ」という話をしていた。

 

勿論、具体的な話の前に、人間関係の形成は大事ではある。しかし、それは問題に対する「共通認識の樹立」の段階の話であり、それを言葉を用いて成し遂げる能力があれば、その後の交渉は誰でも良い筈である。

 

日本の問題点は、議論や討論のまえに、当事者間に上下関係が存在することである。勿論、組織上の上下関係は、例えば国家間の話では大事である。つまり、日本の外務大臣と話を詰めるのは、例えば米国の国務長官が妥当である。

 

国家とその各組織は、機能体である。(補足5)従って、国家と国家の交渉においても、国内での議論においても、機能体としての上下関係は勿論重要である。その機能体での上下関係を、人格的にはフラットな関係のままで達成しなければならない。

 

しかし、儒教で想定する社会は、共同体のみであり、機能体組織の考え方がない。日本社会には、組織を背負う前に、上下関係を設定してしまうという、その悪しき儒教社会の遺物が存在する。

 

(16時20分、一部修正)

 

補足:

 

1)ただ伊藤氏のそれに続く議論は、冗長であり明確な結論に結びついていない。男女は同じ生き物か?という表題で、女性と男性は元々生物学的に異なるという原点から出発するセクションは、設定が面白いのだが、あまり有用には思えなかった。森氏の発言は、「女性蔑視ではなく、女性差別だ」というのも、私には論拠を欠いていると思う。森氏の発言は、「少なくとも女性4割」という男性差別に対する反論だという考え方もある。そのように感じたのが、この文章をかくもう一つの動機となった。

 

2)森喜朗氏は元日本国の総理大臣である。森氏以降の総理大臣と比較して、優秀だったと記憶している。従って、森氏が愚鈍だったとする場合の議論はここでは省略する。

 

3)この個人の独立であるが、勿論相対的な比較である。人間が社会を作って生きる以上、個人の独立は一部返上する。

 

4)「日本の生産性をだめにした5つの大問題について」という米国在住の方の指摘を俎上にあげて、議論した。組織を専門化して高度化することが、十分機能体組織化していない日本の会社では出来て居ないという指摘である。尚、機能体組織と共同体組織は概念で峻別されても、人間社会の組織はそれらの中間的性質を持つ。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12564206453.html

 

5)国は共同体である。主権国家体制の国際関係において、国が滅んでしまえば、その旧国民は違法難民状態となり、原理的には生存根拠を失う。現在でも国を持たない人々は、虐殺の対象になっている。また、国家(行政機関のこと)という組織は、機能体組織であるべきである。多くの専門家が高度になった各専門を担当し、各専門組織の構成員の間には、意思の疎通がなければならない。理想的には動物の各細胞のような、共同体でありながら、高度な機能体を構成しなければならない。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12588961158.html

 

 

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