民主主義を標榜する国家では、国を束ねる権力は神の代理的な皇帝から、法とその執行機関に移動している。その時から、宗教が解決すべき問題は、個人の心の問題となった筈である。(補足1)その時以降、宗教には政治(=国家及び地方の行政)に関わる本質的動機は無い筈である。
法の支配下の民主政治において、宗教教団が何らかの政治的活動を行うとしたら、それは教団として何らかの利益を得ようと考えていることになるだろう。それは個人の心の問題を対象に活動するという本来の在り方に矛盾するだけでなく、教団が不都合な何かを持っている証拠である。(補足2)
つまり、そのような教団は、民主政治の下で宗教法人の資格を得るに相応しくない筈である。以下、その点について少し考えてみる。
1)宗教の意味と政教分離の原則:
個人の心の問題とは、死への恐怖と思い通りにならない人生に関する苦しみとでも言えるだろう。それは、生きることの裏返しでもある。この人に根源的な悩みは、無くなることはあり得ない。その苦しみは、囚われることにより益々大きくなるという性質がある。
通常、日常的にその問題に囚われる人は多くないだろう。それ以前に、仕事で様々な問題を考えたり、余暇活動などでそれを忘れているからである。これらは、殆どの人を人生の苦から一時的に解放してくれる。
それらが無くなった時、人はその苦しみと正面から対峙することになる。また人によっては、この問題の解決無くして、日常生活などあり得ないという情況に追い込まれた人も、いくらか存在するだろう。不幸が重なり、積極的に仕事や趣味に向かい合えない人たちである。
この人生における苦から逃れるために、何か特別のものに身を委ねる人も多い。例えば、何かの集団の中でその活動に熱中すること、快楽に身を委ねること、或いは絶対的存在に帰依すること等である。絶対的存在への帰依とは、宗教への入信である。
古典的な宗教の場合、古代の歴史から続く伝統もあり、帰依する人を受け入れるだけの基礎は持っているだろう。(補足3)しかし、新興宗教の場合、いったいどのような教えを持って、上記根源的苦悩と向かい合うのだろうか?そして、宗教法人の資格が得られたのだろうか? 先ずこの点が不思議でならない。つまり、最初の段階から政治との癒着を疑ってしまう。
新興宗教は、恐らく、集団の中で人と人を強く結びつけて、孤独感の残る隙間を埋めて「従属」という安心感を与えるのだろう。それは病的な近代化の個人主義に対する反抗だとしても、宗教などではない。その活動に熱中することは、ドラッグ的であり、上記宗教の目的を逸脱しているように思う。
何れにしても、宗教は個人の心の問題にまで介入する。宗教は個人を迷える人達と捉え、一人前として扱わない。個人の自立を前提とする民主主義政治の場と、宗教の場が重なることは、100%禁止されなければならない。それが政教分離の原則の理由であると思う。
2)宗教団体と政治の関わり:
日曜朝のテレビ番組の「ザ・プライム」で、コメンテーターの橋下徹氏は「宗教団体が政治に関わることは、宗教団体の構成員も一票持っているのだから、禁止はされない」「禁止されるのは、問題を抱えている宗教団体と政治が関わることだ」という趣旨の発言をした。しかし、この考えは間違っていると思う。
宗教団体が、そのアイデンティティを保持したまま(仮に別に政治団体を作ったとしても)政治活動に参加することは政教分離の原則に反する。憲法20条には、「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」と書かれているからである。ここで、政治上の権力行使とは何か?
先ず、政治とは特に国政や地方行政を意味すると考えて良いだろう。そして、「政治上の権力行使」における主格(主語)は、宗教団体のトップ或いは執行部と考えるべきである。その権力行使としては、信徒にたいして支持政党等を決める自由を侵害すること、更に、教団に都合の良い候補や政党に対する投票を、一般公衆に呼びかけさせること等がある。教団として支持政党を発表することは、教団幹部と信徒の上下関係から、これらの政治活動に他ならない。
尚、権力とは、「他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力 」(広辞苑)であり、それを国家権力と狭く解釈する人も居るが、それは間違いである。また、強制力の範囲としては、暗黙の圧力なども含まれるべきである。
宗教団体(或いは別途作った政治団体)の幹部或いは執行部が、その資格のままで、ある議員候補を推薦し応援する場合、団体信者に対して投票や応援での協力依頼(依頼という名の強制)を伴うことになるが、それは政治上の権力行使である。その宗教団体が問題を抱えているとかいないとかは問題ではない。
勿論、宗教団体の構成員が、政治家として立候補することや、個人としてある政治家を応援することは全く問題ではない。しかし、その候補者に対し、宗教団体(或いは別途作った政治団体)として、応援することは憲法違反になると思う。
上記()内に示したように、宗教団体が別途政治団体を創設し、そこで政治活動を行う場合が多い。その場合でも、母体から同じメンバーが政治団体に加わることがほとんどである。このようなことが大々的に日本で行われている。しかし、明確な憲法違反の判断は、現行の制度で下されていない。
ある政治問題に関係する意見のバラツキは、一つの宗教団体信者の中にも存在する筈である。それを無視して、宗教団体の別動隊的な政治団体が一つの政党を形成、或いは支持することは、憲法の精神に著しく反する。
別表現で説明する。ある政党は様々な政治的問題に関して、其々一つの判断を示す。それは、政治的に一つの人格をなすことに他ならない。その政治的に単一の人格の下に組織される構成員が、宗教的に単一の人格をなす宗教団体と一致することは、憲法20条に違反し、近代民主国家ではあり得ない。
終わりに:以上、あくまで自分の頭の整理の為に書いた文章です。勿論、批判やコメントは歓迎致します。
(19時、編集あり)
補足
1)古代、民族を束ねるために一神教があった。その後、皇帝や王様が国を治めるようになったが、その正統性を示すために、統治権が神により授けられたと考える(或いは宣伝する)時期が続いた。この民族の統一のシンボルとしての宗教の役割を軽視するのは、農耕社会の日本の伝統である。明治以降の国家神道は、その西欧の伝統を日本も採用した結果である。
2)現行の政治が極めて劣悪であり、もう少しまともな政治を実現しないと民族が滅びる可能性があるなどの危機感から政治活動を始める宗教団体も例外的にあるかもしれない。しかし、それは法の支配下の民主政治の原則に反する。つまり、憲法20条に違反する。勿論、違法覚悟で革命政権を目指す場合は、言うべきことは何もない。ただ、歴史の審判を待つのみである。
3)宗教の教義は様々だが、それらは大きく二つに分けられる。一つは、最初からこの生の苦しみの問題を対象にしたと思われる宗教である。例えば仏教がその一つだろう。この場合、信徒たちは、正しい知恵の獲得により、解脱を目指す。 解脱とは、釈尊の教えを深く学ぶ(信じる)ことで、その根源的苦しみから解放されることである。つまり、「一切皆空」(現世の存在は全て空しい)を心に焼き付けるのである。仏教の宗教活動は、内向的であり個人の範囲内に留まる場合が多い。それでも、極めて政治的な僧兵という集団が、歴史上にあった。
他方、歴史的に民族の生き残りのプロセスに関係した一神教では、神を信じたものは神の意志として生き、永遠の命を得るのである。従って、異教徒などの邪魔者は倒されるべきだと考え、信徒はそれを信じるのだろう。キリスト教の場合は、人の間に神の愛を伝道し満たすことで、この世界の困難と人々の不幸は克服されると説くのかもしれない。しかしキリスト教も、その神の愛を受け入れないものは、異教徒として排除されるべきであるとその一線は固い。一神教は政治的宗教である。
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