2015年8月18日火曜日

「火花」(芥川賞受賞作)の感想

「火花」は、お笑い芸人の世界で格闘する、二つの漫才コンビの様子を描いている。その世界には特有の文化があるが、それは大衆社会の文化と相互作用し、大衆社会の端、格好良く言えばフロンティア(注釈1)として、その中に包含される。そのお笑いの社会の中で漫才師と漫才が産まれ、大衆社会の笑いの感覚と位相があった(注釈2)グループが売れてスターとなり、大衆の笑いと離れてしまったグループは忘れ去られていく。

主人公の徳永のコンビ(スパークス;spark=火花)と、主人公が漫才を始めて間もないときから先輩として師事してきた4歳年上の神谷のコンビは、スターにはなれなかったが、絶頂期には漫才ファンの中でかなりの知名度を持つようになる。徳永のコンビは十年後には、テレビにも出演するほどになり、その時には、両コンビの大衆社会での評価は逆転していた。しかし、徳永は漫才の才能は神谷に遠く及ばないことを知っていた。ただ、神谷は自分の追求する芸と大衆との距離を測ることに、無頓着なところがあったようである。

神谷は、漫才師は“人生そのものが漫才師である”という考え方を持っているが、徳永はそのような漫才師には最後までなれなかったし、ならなかった。漫才師を生きる神谷と、漫才師を職業とすべく生きる徳永の毎日は、読者の私には想像を遥かに越えるものであり、理解は出来ない。彼らの日常の描写は、恐らく過剰演出的なものがふくまれているのだろう。しかしお笑いの世界を一般に理解させるための誇張だと思って読み進んだ。

売れだしたものの、スターには遠く及ばないことを知った徳永の相方は、結婚して平凡な生活に戻ることに決め、徳永のコンビは解消され二人とも平均的な大衆の世界に戻る。売れだしたことが、逆に大衆社会との距離を縮め、コンビ解消に近づくきっかけになったのである。

一方、神谷は求道者のように漫才界に執着し、それが益々大衆の感覚から離反する原因になった。それは同時に、そして必然的に、人生そのものが破綻に近づくことになる。

漫才の世界もプロの世界であり、その中での物差は当然ある。しかし、プロ仲間の評判が高くても、大衆の世界で売れなければどうしようもない。プロとしてはそれ程の芸を見せなくても、笑いを得て成功者の中に入る者もいる。また、世代に特有の感覚もあり、漫才ファンが多い世代から離れたコンビは、その感覚のズレにより鮮度が落ちるように人気も落ちるだろう。そのズレを神谷の様なタイプはどうしても埋めにくいだろう。

漫才師のプロとしての技は、漫才界の文化の中で育つ。そして、大衆の中にスターを送り込むのは、漫才界全体であり、そのスターを鍛えるのは神谷の様なタイプなのだろう。主人公らが漫才界から去ることを決めた後に神谷が語ったことば、「淘汰された奴らの存在って、絶対に無駄じゃない。」は、そのことを言っていると思う。 つまり、漫才界は大衆社会の端にあって独自の文化を持つが、しかし大衆の価値(ここでは笑い)から離れては存在し得ない。

この小説の主題であるお笑いの世界についての上記のような理解は、たぶん他の社会のフロンティアにも共通してあてはまるだろう。つまり: 現在の高度に進んだ人間文化は、フロンティアの連続的拡大によって築かれた。科学、芸術、哲学、文学などに多くのフロンティアが存在し、そこには、その果実を享受した一般大衆社会からの栄誉に浴する少数の人達もいるが、大多数の人は大衆に知られることなく歴史の向こうに消えただろう。消えた人の中には、その分野の基準では、栄誉を得た人よりも優れた人も大勢いただろう(注釈3)

注釈:
1)フロンティアは英語frontierで、最先端、国境、辺境地帯、境界、未開拓分野などの意味。格好良く言えば最先端であるが、同時に辺境の意味も持つ。
2)同じものでもタイミング良くリズム良くさし出すことで、大きくうける。それを位相が合うと表現した。
3)”漫才ごときから何を大仰な”と言われるかもしれない。

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