今日の中日新聞の11面に、鷲田清一氏の「デモクラシーの礎」と題する記事が掲載されていた。その内容は非常に興味深いものだったので、昨日同じ題の記事を投稿したこともあり、続編を書くことにした。
上記鷲田氏の記事は、「ドイツでは憲法(基本法)改正の際、国民投票という手段を採らない」という話の引用から始まる。それは民主主義の手続きに従って、ヒトラーを選んだ苦い経験によるという。つまり、ドイツの人たちは集団化したときの自分達(民衆)の判断を信用しないから、基本法改正の際に国民投票という手段をとらないのだというのである。
多数が何かをきっかけに制御不能の群集になるプロセスは、35年かけて研究した、エリアス・カネッティーの「群集と権力」によると、未知なものとの接触は人々を不安にさせ、それが極点にまで昂じたとき集団の中に回避する、生物としての習性によるという。それは、生物の群れ行動と同じ類いの行動である。
そこで、そのような集団的行動を避けるにはどうするかについて、鷲田氏は書いている。
「その習性を自覚することから始めなければならない。そして、“群集に見られるうわずった方向付けではなく、社会として守るべき価値とそれに基づく制度を合理的に選びとっていく、そのような議論を人々の間で辛抱強く続けるはほかない」と。
そう言う振る舞いを“公共(public)”と名付けた場合、「私達はその“公共”をお上に委ねるという習性から未だに脱し得ていない。公共は、自分達の資材や労力を提供する中でともに担い、維持すべきものとは未だなり得ていない」と続けている。
私は、このコラム記事の内容を素晴らしいと思う。そして、まったく同感である。我々が国政に意見を述べるには、それ相応の努力をして、見識を高めた上で、自分自身の意見として述べることが必要である。
前回の記事で、私は上野千鶴子さんの記事を批判した。それは、鷲田氏の書いたように、現在の我国の一般大衆は“公共”をお上に丸投げして、自分で見識を高める努力をしていない。そのような情況下で、上野さんは一方的に政治家に対して、“自分達の納得”を要求しているからである。
安倍内閣の集団的自衛権行使を可能にする安保法制は、米国との安全保障条約をより対等に近いものにしようとする、国際的には当たり前の法整備である。一方、アンケートによるとその法整備は反対多数である。この安保法制は、戦後70年間続いた安保ただ乗り政策に慣れた国民にとっては、確かに未知なるものである。そして、それからの逃避の為に集団化するのはエリアス・カネッティーの理論が予測する通りである。
結論として、我々は私的な資材や時間を使って、層の厚いパブリックな政治的空間を育て、その中で、なるべく多数の国民がこの国の過去および現在の姿と将来のあるべき姿について議論し、政治的思考力を高めるべきである。その上で、相応しいと期待できる政治家を選挙により選び、彼らに一定期間政治を委託するのが民主主義のあるべき姿である。個別の政策について国民の納得を要求するのは、ドイツの教訓に反するものだと思う。そのように考え、前回の記事では上野千鶴子氏のコラムを批判した。
直接投票による「民意」の危険性について、日本では殆ど論じられていないと私も思います。
返信削除「民意」を批判するのはタブーになっている気がします。