例えば、学校で近代史を教えない理由は、時間が不足するという単純な理由ではないだろう。そして近代史を国民から遠ざけていたことが、国民が過去の戦争を消化することを妨げ、70年間独自の防衛体制が出来なかった理由だと思う。
(1)70年たっても、独自の防衛体制が出来ていないのは何故か?
その理由の一つは、あの戦争があまりにも悲惨なものだったから、敗戦後国民が将にブラックアウト状態になってしまった。そして意識を回復した後も、国民は政府を信用せず、政府が自衛のために抑止力としての自衛軍が必要だといっても、その論理が国民に理解されないのである。
政府が国民の信頼を回復するには、あの戦争を国家として総括したのち、それを学校教育で教えて、あの筆舌に尽くし難い体験を国民に消化させる努力をしなければならないと思う。その努力を戦後70年間全くしてこなかったのである。
むしろ、政府は近代史にはなるべく触れないよう学校を指導してきたのではないだろうか。私はそう疑う。
(2)ある評論家の方がテレビで、当時米国大統領だったフランクリン・ルーズベルトが日本を成り上がりの大国もどきと考え、叩き潰したかったのだろうと、米国が日本を戦争に誘い込んだ理由を解説していた。
確かにあの戦争は、日露戦争勝利などで明治(薩長)政府が、そしてその中の軍部が、増長してしまったのが原因ではないだろうか。第二次大戦との関連では、張作霖爆殺事件や満鉄爆破事件など軍部の独走として理解されている。
戦争責任者の多くは、東京裁判で報復的に殺された。彼らが連合国側に裁かれる理由などないが、国内的には責任追及されるべきである。それが出来なかった事、及び、残った官僚や政治家のかなりの部分は、何らかの責任を抱えたまま戦後政府を担ったのではないだろうか。その結果、近代史に触れたくない、そして、触れさせないでおこうという空気が霞ヶ関周辺を覆ったのではないだろうか。
(3)明治憲法第1条は、“大日本帝国は天皇が統治する”とあり、第3条には、“天皇は神聖にして侵すべからず”、第11条には、“天皇は陸海空軍を統帥する”と書かれている。第3条の規定は、天皇の政治への関与はゼロ%か100%かのどちらかしかあり得ないことを示している(補足1)。前者とするために、第55条“国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず”がある。そして、「君臨すれども統治せず」というゼロ%に近い天皇の政治関与という制度を定めたのである。
明治憲法は、上記条文でも解る様に、行政(第1条と第55条)と軍事(第1条、第11~13条、第55条)が分断されている様にも見える(補足2)。そのような憲法の構成は、薩長等の武士が軍事力に重みを置いて、明治政府を運営する目的があったのではないだろうか。
権威と権力が同居せず、しかし時と場合によっては天皇の政治的軍事的意味が変化するようでは、まともな政治は不可能だと思う。新しい政治形態(明治政府)が落ち着いたところで、憲法を改正し、軍を天皇直属から各大臣の下に置くべきだったのだろう(補足3)。
近代史を徹底的に教育する場合、必然的に天皇と過去の戦争や政治の関わりが関心を呼ぶ。その結果、大日本帝国憲法の天皇に関する記述が議論される。それを嫌がる勢力も近代史を国民から遠ざける様に働いているのかもしれない。
補足:
1)神聖にして侵すべからざる天皇が、政治に手を染められる場合には、その政治は完璧なものでなければならない(=絶対王政)。衆議を経て政治を行なうなら、天皇のだされた方針が完璧でないなら、修正してもらう必要がある。それは、“神聖にして侵すべからず”に反する。
2)明治憲法第55条の規定により、各大臣の助言(輔弼)通りに統治が行なわれる。しかし、陸軍大臣、参謀総長、教育総監は陸軍三長官と呼ばれ、横並びで陸軍を動かした。https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国陸軍 従って、制度的にも軍は内閣に属するという関係ではなかった。
3)旧憲法下では、政治と軍事の両方にまたがる権威として、天皇が唯一の存在だったのである。明確な国家の意思が示されていたのなら、「君臨すれども統治せず」とは矛盾する。憲法は最高権力の在処が不明瞭であるという根本的欠陥を抱えていたにも拘らず、歴代政府首脳は憲法改正をしなかった。明治後期から昭和前期の政治家は何を考えていたのだろうか。多分、天皇を畏れて、そのようなことが口に出せなかったのだろう。そう考えると、どうしても幾ばくかの天皇の責任が出てくるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿