2015年8月2日日曜日

ピストル解禁に関するこの質問にどう答えますか?

1)ある年ある日、日本でも米国同様にピストルを、成人になれば持てることになったとします。そのとき、あなたの家庭でもピストルを購入しますか?

米国では多くの人がピストルを持つ。その結果、射殺事件が多く起こっている。ただ、家の主も公園を散歩するレディーもピストルを持っていることが当たり前であることが抑止力となり、命や財産を守ることが出来た人や、暴漢から人間としての尊厳を守ることが出来たレディーが、何人居たとしてもニュースにならない。(未遂事件のことではありません。念のため)

おそらく、米国でピストル保持が禁止されれば、社会は混乱する可能性が高いだろう。社会は複雑であり、警官による射殺事件も多発している国である。具体的な問題となれば、国中が議論で沸騰するだろう。

日本の場合、ピストルを解禁することは現状では間違いだと思う。何故なら、ピストルを持つ事により発生する抑止力により、助かる命や人間としての尊厳よりも、事故的に或いは安易にピストルに頼ることで失われる命の方がずっと多いと考えられるからである。

もし、両者の差が逆転するのなら、そして、その傾向が当分変わらないのなら、日本でもピストルを解禁すべきであると思う。そして、そのような場合、我が家ではピストルを購入するだろう。

2)主権国家の内部では、国家の構成員である個人の権利と義務は明確に規定され、それに反する行為は行政により告発され、司法により処罰される。

しかし、国際社会においてある国家が、他の国家にたいして”犯罪的行為”(<=国家内の個人の行為に喩えた場合)を将になそうとしていたとしても、本質的に無政府状態であるため、強力な軍事力を背景にしなければ、それを防止することも罰することも出来ない。

そして、国際社会を構成する主権国家には権利も義務もない。国際法はあるが、軍事力を含めて力を持たない国家に対しては、絶対的な権威をもつものの、軍事力を持つ国家の間では紳士協定のようなものである。

つまり、国際社会は本質的にアナーキーであると考えられる。その考え方に基づいて、一定の軍事力を持つという国家の戦略を練ることにも反対する人が大勢日本の政治家には居るが、それらの人も「国際社会は本質的にはアナーキーだとは思いませんか?」と問えば、その通りですと答えるだろう。

彼らは、本人が気付いているかいないかに関わり無く(その意思があるか無いかに関わり無く)、”反日”の政治家ということになる。属国としての地位に甘んじれば、戦争をしないことは可能である。ウイグルやチベットのような立場でも、満足して北京の為に働く人になれれば、軍備など戦争になるので持たない方が良いだろう。

3)日米安保条約の下で集団的自衛権行使の権利を持つことは、米国の下で育てられた飼い犬が、これから愈々本格的に働くための準備だと考える人も多くいるだろう。上記反日政治家の方々も同じことを言うだろう。

日本は米国の庇護の下に育った子供のような存在である。一人前になる時には、親への協力も親との確執もあるだろう。もちろん、米国のヨーロッパと日本に於ける同盟関係は、ソ連の封じ込めと同時に、ドイツと日本を封じ込める為のものであったという面がある。所謂ビンの蓋論(注釈1)である。

何処の国の対日政策であれ、色んな角度から分析すべきである。しかし、もたらした結果から評価することが現実的であり、その結果は当面の戦略を考える上で最も重要であると思う。つまり、日本は日米同盟により利益を得て来たと考えるから、上記のような見方をするのである。勿論、ビンの蓋論が米国の本音であることも考えて、次の戦略候補として別のシナリオを立案しておくべきだと思う。それが、一人前になる前の親への協力と反抗の譬え話の意味するところである。

戦後70年たった今、日本国が一人前になることを明確に意識しているのが、安倍内閣であると思う。ロシアのプーチン大統領との関係も積極的に考えていることからも、対米盲従内閣でないことは明確だと思う。ただ、一人前になっていない今、積極的平和外交の“積極的”は看板だけで良いと思う。

注釈: 1)1971年、周恩来と会談した当時米国国務長官だったキッシンジャーが、日米安保条約による日本封じ込めの意義を説明する為に用いたと言われる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー・キッシンジャー

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