2015年10月19日月曜日

日本人の宗教感覚について

1)日本人に自分の宗教を問えば、「自分は無宗教です」と答える人が多い。しかし最近、西欧人から、「無宗教と答えるのは誤解を招きます。西欧では無宗教という言葉は人でなしと同義語ですから」と教えられ、仏教や神道を答えとして準備している人は多い。つまり、日本人の多くは骨の髄まで宗教的なので、自分が宗教を持っていることにすら気付いていないのだろう(補足1)。

上の話は、日本人と西欧人との間で、「人間から宗教を完全に剥ぎ取った時に、どのような動物があらわれるか」について、認識の違いがあることを示している。日本人は、人間から宗教を剥ぎ取ったとしても、善意とそれに裏打ちされた社会性が残っていると考えている。一方、西欧人はそうは考えていないということである。

例を挙げて更に説明する。日本人はよく、「人間というものは、他人に迷惑をかけてはならない」という風に、人間の本来の姿を定義する。その中に既に、宗教的規範が含まれているのである。この本物の人間、つまり”真人間”に対する概念として、”人非人”つまり人にあらざるヒトがある。人非人とは、人間としての本来の姿を持たないヒトを意味し、”道徳性も社会性”も剥ぎ取ったヒトの定義である。それを西欧風の感覚で表現すれば、「人から”宗教”を剥ぎ取った場合、道徳など持たない反社会的な動物になる」ということになる。

しかし、日本人は自分の宗教を感じていないのであるから、人である以上道徳性も社会性も剥ぎ取ることはできないのである。つまり、非常に深い信仰心を持った民族であるということになるのではないだろうか(補足2)。それが文化の一側面だとすれば(日本人は文化だとは考えない)、日本人は非常に稀な文化を持っている民族だということになる。日本を旅行した外国人からよく聞く感想は、「どこでも日本人は親切である」というものである。日本人は、利害関係が無い外国からの客人には、人として自然に親切にするのである。

つまり、日本人は「人間は本質として善意の存在である」と信じている。更に、「自然は人間の理解を超えた神のような存在であり、人間はその恵みと脅威の下で小さい存在として生きなければならない」が付け加えられる。それが、日本人の信じる宗教である(補足3)。

仏教の位置であるが、それは個人によりまちまちである。しかし、それは本質的に日本人固有の宗教の上に僧衣のごとく着用される宗教であると思う。日本人のキリスト教の信者も、おそらく、日本人固有の宗教からは自由ではないのではないかと想像する。

2)上で、日本人は自分の宗教を感じていないので、それだけ信仰深い民族であると結論した。しかし逆に、自分の宗教を感じるとはどういうことなのだろうか。

服を着ていると感じる人は、暑くなれば服を脱ぐだろう。 しかし、服を着ていると感じていない人は、暑くなっても服を脱ごうとはしないだろう。つまり、西欧の人々が自分の宗教を感じているということは、服を脱ぐように神を裏切る可能性を感じていることになる(補足4)。

服を脱ぐように、宗教を脱いだ人。そのような可能性のある人と、過去に日本人は出会ったことがあるのか?これから出会うとすれば、どう準備するのか? もう一度原点に戻って、この大きな問題を考えた方が良さそうである。

事後補足:日本人は善意と社会性を人という概念の中に組み込んでいる。しかし、西欧人はそれらを宗教の中の一要素に入れている。それは言語上の定義の違いと考えても良いが、定義以上のものをもっているというのが上記文章の意味である。何故なら、それら善意と社会性の前提は、宗教の違う人に出会った時には適用されないからである。(10/20/am)

補足:

1) その宗教は、山本七平氏のいう様な日本教ではない。
2) 日本人は、「人は社会性をもっているから人間と呼ばれる」と考えている。別の表現では、日本人は他人に対して善意で接するのが人間の原点であると考え、感じている。ちなみに、社会性が遺伝子レベルまで及んでいるのが、昆虫の“真社会性”と呼ばれる性質である。極端な言い方をすれば、日本人はミツバチの様に、社会性を種の本質のように信じている民族である。もちろん、その本質から外れた人も居ることは知っているので、その由来は遺伝子ではなく宗教(日本教)である。
3)神道と儒教の影響で作られたのかもしれない。
4)聖書の中に、裏切るという言葉をよくみる。宗教で裏切るとはどういうことなのかと不思議に思ったことがある。一神教とは、常に裏切りと背中あわせの宗教なのかもしれない。

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