2016年10月21日金曜日

死刑廃止論について:

1)朝日新聞デジタルによると、日本弁護士連合会が「2020年までに死刑制度の廃止を目指し、終身刑の導入を検討する」という宣言を採択した。http://www.asahi.com/articles/ASJB74JGWJB7PTIL010.html この日本語は少し変だが(補足1)、それはさておき、すこしこの死刑廃止論を考えてみたい。

この件についての瀬戸内寂聴さんのコメントが話題になっている。J−CAST Newsによると、上記日弁連が福井市で開いた死刑廃止に関するシンポジウムで、以下のような発言をしたという。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください」;「そして、殺したがるばかどもと戦ってください」http://www.j-cast.com/2016/10/08280174.html?p=all

死刑廃止論者の発言でよく聞くのが、この瀬戸内寂聴さんの最初の発言にある「人間が人間を殺すのは、一番野蛮なこと」であるから、死刑は廃止すべきであるという意見である。上記記事を信じた上で書くのだが、何故このように幼稚な発言を瀬戸内寂聴さんはされるのだろうか?

その一番野蛮なことを一番野蛮な形でやったのが、死刑を検討される犯罪者であることを忘れているのか? OECDで死刑制度を持っているのは日本だけだという死刑反対論も多いが、何故OECDが出てくるのかさっぱりわからない。しかも、OECDで中心的な米国などでは、裁判もしないで死刑同等の行政的行為がたくさんある。警官によるその場での射殺である。

2)私は凶悪な犯罪に対しては死刑もやむをえないと考えている。その理由は以下の通りである。限られた空間と資源の中で、人間は社会を造って生きている。その構造を防衛する行為として、国外の敵に対しては戦争で対決し、国内の反社会的行為には刑罰で対決しているのである。

凶悪な殺人行為を為した者にたいして死刑を執行しなければ、その家族や親族が社会に正常な形で参加できなくなる。つまり死刑は、人間と社会(公の空間)の間の信頼感を維持し、(社会の構成員である)人間が正義を信じ規律を守る社会の基本的体制を維持するための制度であることを忘れてはならない(補足2)。

死刑は被害者家族に私怨を晴らさせるためという考えもあるが、それは誤りである。犯人を死刑にしても、恨みは決して晴れないだろう。被害者家族に聞いてみればわかると思う。瀬戸内寂聴さんはそれをされていないのだろう。

もう一つの死刑廃止論者の意見に、「冤罪の可能性がある場合、死刑は取り返しがつかない刑罰である」というのがある。 こちらの意見には、一定の説得力がある。しかし、我が国ではそれを防ぐ工夫が幾つか存在しており、その確率は減少しつつある。

我が国では周知のように、死刑にはもう一段のバリアが敷かれている。法務大臣が印鑑を押さなければ、死刑執行されないという制度である。それに再審制度もあり、死刑判決を受けても再審で無罪になったケースもある。http://matome.naver.jp/odai/2139580959957165101

更に、最近は取り調べの可視化など警察や検察の捜査等について、冤罪予防の措置も取られている。したがって、冤罪で死刑執行という確率は相当下がっていると思う。その時代の流れの中で、何故死刑廃止を叫ぶのか? 私は、瀬戸内寂聴さんなどのナイーブな反対論は別にして、この問題を取り上げる中心に政治的意図があるのではないかと思う。

補足:
1)日弁連は国会議員で構成されている訳ではない。しかし、この「」内の言葉は、まるで内閣か国会を構成する人たちのような発言である。日弁連か朝日新聞か、どちらかが日本語が下手なのだろう。
2)OECDで死刑制度を持っているのは日本だけだという意見の間違いは、それぞれの国の状況を無視していることである。それと関連して、最近フィリピンのドゥテルテ大統領の麻薬撲滅を目指した殺人も、軽々に反対するのは慎むべきだと思う。「社会の防衛」という視点でみれば、 人体に対する外科手術と似ている。

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