1)今日は節分で豆まきをする日だが、それに加えて恵方巻きの日だそうだ。この変わった新しくできた風習が短期間に広がるような国は日本だけだろう。恵方巻きの風習は、あるコンビニ店が1998年に初めてから急激に広がったという。(ウィキペディアの恵方巻きの項参照)日本中で、ある方角(恵方)を向いて巻き寿司に黙ってかじりつく姿を想像して欲しい。なんと滑稽な光景だろうか。由緒ただしく”恵方巻き”を行う方法は以下のサイトにある。http://xn--365-4k4bodqhlg.com/archives/575.html
今日のスーパーマーケットのチラシ(読売新聞に添付)は3枚あったが、その全てに恵方巻きの宣伝が大きく掲載されていた。数年前まではこのようなことはなかったと思う。日本では、近隣が何かをやりだすと、同じことをやらないと不安になるらしい。この風習に抵抗があるひねくれ者は多分少数派だろう。
2)ずっと前の話だが、大都会の公務員住宅に住んでいた頃、子供の体格などを考えてナップサックで通学させたことがあった。交通事故などの危険性がランドセルでは高くなると考えたからである。2ヶ月も経たないうちに、周囲から変な家だと思われたらしく、ある家の奥さんから嫌味を言われた。子供のいじめに繋がっては大変と思い、ランドセルに変えざるを得なかった。何もかも横を睨んで決めるこの国の異常さを示す一例であると、以前どこかに書いた。
私は、恵方巻きや豆まき、その他の多くの日本の風習に疑問というか不快感を持っている。この種の風習が短期間に広がることに滑稽というより気味悪さを感じる。それは、誰かがある説を唱えると、日本人の多くがそれに容易に従属することを示しているからである。「まあ国民が揃って楽しむことを一つ創り出したのだから、良いではないか」という言葉は理解できるのだが、それはその他の場面で自立した個人の姿が見られる場合に限られる。
なぜ横並びになんでもしたがるのか?それは、自分の感覚や能力に自信がないからだが、それを獲得すべく努力する切迫感も持ち合わせていないのだ。そして、現状を受け入れるとか、あるいは周囲に合わせておくと言う“楽な道”を選択する。この国では、目立たないことが徳であり得なのだから。
“楽な道”の選択が可能なのは、一応豊かな環境に育ったからである。そして“切迫感がない”のは、その豊かさは祖父などの世代が血を流して得た豊かさであることなど知らないからである。近代史を一切教育されていないので、今の青壮年は世界の厳しさを理解していないのである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42338886.html
自分に能力や感覚がないのなら、それを付けるべく努力すべきである。何もかも、一から自分の考えを組み上げようとするのが、自立した成人の姿である。こちらが恵方だと見知らぬ怪しげな人が自信ありげに言っても、その根拠を自分で考えるべきなのだ。豊かな時代が終われば、その恵方には罠があるかもしれないのだから。
3)私は無神論者ではない。しかし、既存の宗教を信じる者でもない。ただ、太陽や地球、そして、そこに生きる様々な生物の存在は奇跡であると思う。時間、空間、物質、そして何よりも自分という存在すら自分では理解できないのだから、絶対神の存在など否定できるわけがない。しかし、神が存在したとしても神は我々個人には無関心だと、私は思っている。
その一方で、自分以外の人たちが幻影ではなく、自分と同じ人間だとするなら、他の人たちが作ったことは自分にとって判断可能な範囲に含まれると信じる。歳徳神(恵方などを決める)とか古くからあるものでも、人がなんらかの都合で作ったと思われる神や、日本の多くの人格神など全てが、くだらない幻だと思っている。
賽銭を投げ入れて、木像や建物に手を合わすだけで、あるいは巻き寿司をある方向に向かって食べただけで、何か良いことが期待できるわけがない。ただし、それを考案した人には間違いなく、金銭的な利益が転がり込む。そんなことをして、そのようなことを企んだ人たちに利益をもたらして、悔しさや腹立たしさを感じないのが情けない。
この世界には、自分たちの企みを達成するために適当な情報を流し、巧みに世論を動かそうとする人が多くいる。「注文の多い料理店」なら、気付くかもしれない。しかし、注文の数を巧みに減らした料理店なら、我が国の人たちは進んで餌食になるだろう。
恵方巻きなんか小さいことでどうでも良いのだが、一言書きたかっただけである。(小言幸兵衛)
0 件のコメント:
コメントを投稿