宗教には表題に書いた二つのタイプがあるようだ。また、代表的な宗教は、二つの側面を持つようだ。以下は先日宗教について書いた文章の続きである。(22:45 大幅に編集しました。)
1)日本人にとって身近な宗教である神道を考えてみる。神道での二つの宗教とは、オリジナルな神道と伊勢神道(筆者の命名)である。オリジナルな神道は、自然に対する畏敬の念がそのまま宗教になったものであり、所謂アニミズムに属する。何度も取り上げて恐縮だが、深沢七郎の小説「楢山節考」の中に出てくる楢山信仰がその例である。高い山を神格化し、そこに参ることが死出の旅の始まりであるという宗教である。楢山参りは、人生設計の中にしっかりと組み込まれている。
神道を信じることは、人として生まれた自分も自然の一部であり、自然は全体として調和的に存在し動いていると信じ、感じることだと思う。それは、草木、昆虫、動物から、岩、山、川、海、空に至る自然全てに対して畏敬の念を持つことであり、日本古来の文化となって定着していると思う。
一方伊勢神道は、世界を創造した神とその子孫である天照大神の信仰である。それは、天照大神の子孫である天皇家に対する忠誠を、人々の間に醸成するという政治的意図を伴っている。原始的アニミズムに分類されるオリジナルな神道と比較して“先進的”と言えなくもない。(補足1)
伊勢神道は、天皇を国家の象徴とし国民団結の旗頭とする意味があり、それは日本人がこれまで国家を維持し生き残る上で、大きな役割を果たしただろう。しかし、靖国神社を建立し兵士を鼓舞する方向に伊勢神道を用いたのは、結果として宗教へ頼り過ぎたのではないかと思う。そして、先の大戦での大きな犠牲は、知恵と戦略に欠けた為政者の無責任の結果であることを、後の戒めとして再確認すべきだろう。その為政者まで合祀したのは、時の宮司の国民に対する裏切り行為だと思う。(政治家の靖国参拝を支持する櫻井よしこ氏を批判した文章:https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41369336.html)
現在の何かとグローバル展開される世界において、伊勢神道は日本民族の故郷であるが、そこに拘っていては日本に生きる道はないと思う。
それとは次元のことなる、他人を支配する宗教も多く発生している。それらは邪教というべきだろう。それについてはここでは触れない。
2)世界最大の宗教神は、エホバ神(ヤハヴェ神)だろう。それを信仰する宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。それらに於いても、濃淡の差はあるが上記の性質が“二つの側面”として存在するだろう。つまり、人が生きる為の知恵が集積された本として、聖書を見ることができる一方、特にキリスト教において、後述のように政治的に利用されやすい側面があると思う。ユダヤ教やイスラム教も、同じ宗教の人たちを率いるという政治的側面があると思う。
旧約聖書は創世記で始まる。その創造神話は、自然と人間に対する極めて深い理解が背景になければ書けないので、本当に神のことばかもしれないと思う程である。人に、それらの本質を教えてくれる、知恵の書であると思う。そして、ユダヤの歴史の部分は、やはり民族の団結を意識したものだと思う。
イエス・キリストの“ことば”は、ローマの支配下にあった人々に生きる勇気を人々にあたえただろう。そのイエス・キリストの言葉を用いて新約聖書を編纂し、新しい宗教として組織化し、強い勢力となるようにまとめ上げたのが、パウロだろう。(ウイキペディア参照)
キリスト教の一派であるイエズス会が、ローマ帝国の宗教を世界に広めたのだが、それは世界各地の植民地化プロセスの最初の役割を果たした。それはまさに宗教の政治利用だった。キリスト教は“愛”の宗教だと言われるが、他国の人や政治を堕落させる武器ともなるのだろう。(補足2)
その辺りについては、ニーチェのアンチクリストの翻訳書の一つを読んだ感想として、以前書いたことがある。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43225234.html
3)宗教は広い範囲に広がれば広がるほど、同時に政治的色彩が強くなるだろう。アニミズムの範囲の神道は、個人や集落や部族のものであるが、伊勢神道は日本国全体を制覇すると同時に、政治的色彩を強くしたと思う。それと同じく、キリストの教えもパレスチナの宗教、ローマ帝国の宗教、そして世界の宗教と対照範囲が広がるが、それぞれの段階で政治的色彩が強くなったのではないだろうか。
人間の歴史を通して、大衆が満足した時代は少ないだろう。厳しい現実の中で、絶望的な将来に向かって希望を与える言葉が、結果として二枚舌になってしまうのは不思議ではない。パウロは、「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」と言った。それは大衆の心を掴むが、神がいない以上、現実は「神は自ら助くるものを助く」(God helps those who help themselves.)ということになる。
上記パウロの言葉は、人間社会の大多数を占める下層に、上層に位置する人間の否定を教えたのである。その考えには政治的意図が含まれていると考えられる。おそらく意図的に挿入された政治的要素だろうし、世界に広がった理由の一つだろう。言葉で飾る民主主義とキリスト教は、非常に親和性があると思う。
民主主義の価値観である、自由、人権、平和、正義といった言葉で、世界を統治できるのなら理想的である。しかし、現実は利益をどうあげるかで動いているのである。そのメカニズムを熟知した世界の国々は、理想論を表にだして、現実論で動くという国際政治を採用している。それは同じ人間の中に同居している以上、二枚舌と言わなければならない。それが世界の標準であるということを理解しないナイーブな国の代表が日本である。
補足:
1)学者は、アニミズム的宗教を原始宗教に分類する。その分類に従えば、伊勢神道は先進的ということになる。時代が進み、人の集合(社会)の単位が、大家族、部族、国家と大きくなるに従って、宗教も政治的側面を持つことになる。時の経過を進歩と呼ぶ習慣に従って、アニミズムを原始的と呼ぶだけである。それは“学問的偏見”の一つだろう。
2)母親の愛は、幼い子供を育てるが、成長したあとは子供を堕落させる恐れがあるのと同様である。
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