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2017年11月8日水曜日

学校でのイジメなどの社会の病気は、個人を傲慢にした戦後教育が原因だろう

1)同朋大名誉教授の中村薫氏が中日新聞(11/7;12版15面)に無量寿経を引用する形で、最近、人間関係で互いに緊張感が不足していると書いている。お経の言葉は「汝、起ちて更に衣服を整え合掌恭敬して、無量寿仏を礼したてまつるべし。」である。

中村氏は、この言葉を引用し「互いに衣服を整え、緊張感を持って、一人ひとりが、互いの人格を敬い合う人間関係の樹立が大事だ」と説いている。

「権力におぼれ、自分たちの主張を無理やり通そうとする国会議員。また、当選のためなら無節操に党を変わる議員など、襟をただした緊張感が足りないのではないか。家庭においても、嫁姑だけでなく、親子など家族同士で憎しみあうことが増えた。」と。

なるほどと思って、ネットサーフを始めた。そうすると、このことばは有名であり幾つかの解説を見つけた。下に紹介するのは、真宗大谷派専念寺の釈祐耕住職の解説である。

お釈迦さまが、長い大無量寿経を正しい姿勢で聴聞していた阿難尊者に「あなた、それでいいですか」と注意された言葉だという。真剣に聞いているつもりでも、仏さまを忘れて、いつの間にか自分が勝手に解釈した世界に座り込んでしまう人間の習性に、「起ち上がりなさい」とおっしゃった言葉だという。 http://www.sennen-ji.jp/moty/archives/news/20160101085848.html

2)最近、個人が公の空間に出ても、独居の時と同じ感覚で、緊張感をなくし唯我独尊というか、傲慢になっているように見える場合が多い。また、現代の日本社会に、“自分らしさ”を発見し、それを前面に出して生きることにこそ然るべき人生であると考える風潮がある。そして、そのプロセスに対して“自分探し”という表現が屡々用いられる。

これら個と社会の関係において、個を過剰に評価し尊重する風潮は、個の放任となり、現代の多くの“社会病”の原因となっていると思う。これは日本だけでなく、世界的な傾向かもしれない。(補足1)

しかし、人間は高度な社会を造って生きており、そこでは野生において個が持つ要素の内、多くを社会に委ねている。そして個の要素は、個が持つべき社会に規制された部分とそれ以外の個性として広がりのある部分に分けられる。この標準的な部分をキッチリと持つ様に育った人間を紳士(淑女)と呼ぶのだろう。

初等及び中等教育で大事なのは、社会で生きられるように、社会に貢献できるように、社会に規制された部分を身につけることである。それにプラスして、個性を伸ばすこと、そしてそれを社会の成長に活かせる様に、自分を作ることだと思う。(補足2)

その為に、初等教育においては先ず敎育すべきは、緊張感をもって先生の授業を受けるという姿勢である。中等教育までは、社会の仕組みとその中で生きるという人としての初歩を徹底教育すべきである。個性を伸ばす部分では、上記社会の成り立ちと教育の目的とともに、教えるべきである。

3)イジメについて:

そのような敎育をしておれば、学校におけるイジメなどあまり起こらないだろう。新しい知識を教わるという緊張感が学校の雰囲気を支配しておれば、その緊張感は生徒の「自分勝手」を封じる筈である。

学校のクラスルームは当然のことだが、一つの社会である。その社会への貢献、社会の成長と防御などを、生徒が自ら実践するのが、義務教育での必須であるのなら、社会の崩壊であるイジメを無くすることは、教育の一環に含まれる筈である。

自分を抑え、過去の人類が築いた叡智に学ぶ姿勢を持った人間は、自分を見る目と同時に社会を見る目ももっているだろう。その基礎知識を身に着けた人間には、その社会の欠陥や不足と同時に自分の適正も見えている筈である。

「自分探し」とは、自分を知ると同時に自分の生きる社会を知ることである。従って、社会を十分学ばない者には、自分のあるべき姿など永遠に見えないだろう。(補足3)

4)現代社会は、個人が襟を正す姿勢を奪ってしまった。その原因は、恐らく戦後英米文化を誤解して導入したのが一因だろう。その原因の一つに戦後の占領政策も大きな要素だろう。何故なら、上記社会に適合し、社会に貢献し、社会を防衛する姿勢は、日本古来の姿勢であり、日本が再び大国として復興しない様にそれを徹底的に破壊したのが、WGIP(戦争犯罪情報プログラム;war guilt information program)だと思う。

自由、平等、そして人権は、近代西欧社会の大事な概念だという。しかし、それらはあくまでも社会の中の自分について、権利の側面を言ったに過ぎない。それを最大限に主張し、義務の部分を無視する様に育てられたのが、日本社会党などの左翼政党である。それをGHQは支援したことはよく知られている。(補足4)

社会の中に生きることを運命付けられた人間には、当然社会に於ける義務を負う。個人の自由は、社会のルールに従い、社会を防衛すること、他人の自由を尊重するという義務を知る人間のみの権利である。平等も、社会のルールが定める平等であり、個人が平等・不平等の決定権を持つ訳ではない。人権についても、現在の世界では国家あっての人権であるから、社会国家の安定に寄与する個人のみのものである。(補足5)

つまり、自由、平等、人権などの言葉を使う時に、社会の中の自分という視点で、それらの言葉が理解できていることが必須である。紳士淑女は個の主張においては謙虚であり、社会や国家を守るという意思と勇気を持つ筈である。(補足6)ただ、戦前の国粋主義は、国家は個人の為にあるという第一原則を無視しているので、論外である。つまり、国民全員が積極的に政治に参加し、政治家のレベルをあげることが大事である。(11月9日6:50編集)

補足:

1)世界がポピュリズムの方向に向かっていることは、それを示している。
2)戦前の国の為に身を捧げるという戦時敎育の反動と言えるだろう。しかし、長い歴史と高度な文明を持つ社会では、個人の社会への貢献なくしてはそれを維持できない。能力に限界のある個人は、自分探しよりも社会の構造やダイナミックスを学び、そこに自分を適応させる作業こそ急ぐべきことである。
3)ドイツの政治家、ワイツゼッカーの言葉「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目である」は有名だが、「世界に目を閉ざすものは、自分に対しても盲目である」とも言えるだろう。自分とは、時空4次元空間の中の原点であるから、これらは当然である。
4)GHQ民政局が、社会主義政党を支援したことはよく知られている。(ウィキペディアの55年体制参照) また、米国における社会主義者の進出、マッカーシーによる赤狩りについては文献も多い。
5)この社会、それを包含する形での国家に対して、それらを害する行動をとるものに人権はない。
6)紳士であることを目指す意思を個人に植え付けることが、教育の目的である。札幌農学校のクラーク博士の言葉を引用して、ヤフーの知恵袋に質問の形で投稿したものを引用します。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1155470071

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