今日は73回目の原爆忌である。今朝のNHK総合テレビで記念式典の実況放送が始まった時、その最初に「原爆の犠牲者(補足1)となった人たち」というアナウンサーの言葉を聞いた。その後直ちにテレビのスイッチを切った。欺瞞の式典など見る気がしないからである。
時事通信配信のニュースでは、安倍総理の挨拶の内容に触れて、「核兵器の無い世界を主導すると言いながら、核兵器禁止条約に触れなかった」と批判的に報道した。安倍総理の挨拶に対して批判をするのなら、その根拠を具体的且つ論理的に説明すべきである。説明などできまい。
安倍総理に対して反平和主義的烙印を押すことが、本意か不本意かは分からないが、前者なら時事通信社も反日的であり、後者なら無知である。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180806-00000018-jij-pol
また、広島市長の挨拶は「核兵器廃絶を目指すため、核兵器による悲惨な被害を人類の記憶とするため」という内容だったと思う。遠い国の話に対するような内容であり、市長に「殺されたのはどこの国のどの都市の民なのですか?」という質問をしたいという気持ちになった。
何という情けない国だろう、この日本という国は。日本国の行政が本来目指すべきは、日本国民の安全と繁栄である。他国民の(世界人類)の平和と安全や核兵器の廃絶を目指すのは、それ(日本国民の安全と繁栄)に抵触しないことを前提としての話である。そんな単純な論理さえ、理解できていないのだろうか?
広島での虐殺を犠牲と言い換える無知蒙昧(補足2)さ、広島での虐殺を忘れないための式典において、世界平和や核兵器廃絶を他国事(他人事)のように挨拶で訴える無神経さ、それに何の疑問も感じないで聞き流す国民の鈍感さ、その全てに呆れる。
日本国及び広島市のトップなら、以下のような内容の挨拶をすべきである。「世界平和に陰りが生じている現在、自国の平和と安全をどう確保すべきか考える時、この広島での虐殺とそこへ至った歴史から学ぶべきである。日本国民の一人一人が具体的に、その方法や戦略を考えてほしい。」
日本国民の利益を考える報道機関なら、虐殺を犠牲と言い換えるようなふざけたことは止めろと言いたい。日本国が言霊文化圏だとしても、せめて報道機関は言霊に支配されない言葉使いをすべきである。
追加:8月6日午後11時過ぎ
1)「戦争での犠牲者」という表現の場合、それが正しい日本語であるためには、天皇(或いは日本国の神や人類の神)という絶対者に命を捧げたと見なされる場合でなければならない。従って、単なる身代わり(補足2に記述のケース)の場合には、犠牲者と呼ぶのは無理かもしれない。
2)補足1に広辞苑の第二版に、犠牲者という項目は無いと書いた。しかし、野球における犠牲打(通常犠打という略称を用いる)という項目は、犠牲という項目のサブ項目として存在する。その略称が犠打であるとも書かれている。広辞苑第二版におけるこれらの言葉の取扱を勉強すべきである。(漢字を覚えてクイズに強くなることにエネルギーを注ぐ無駄も指摘しておきたい。)
補足:
1)犠牲者とは本来、犠牲となった者の意味である。広島の人たちはいったい何のための犠牲になったのか?それを一切言わないで、何が犠牲者だ。自然災害で死亡した人を死亡者と呼ばないで犠牲者と呼ぶのは、自然を司る神の怒りを買う(神は殺し屋ではないので)可能性があるからである。この言葉上のごまかしは数多くあり、その原因は日本に根強く残る言霊信仰である。尚、広辞苑第二版には犠牲者という項目はない。
2)広島と長崎の原爆投下により、日本の降伏宣言はロシアの予測よりも相当早くなっただろう。その結果、日本はドイツのような南北分断の悲劇に会わないこととなった。更に、米国支配層はその惨劇を見て、日本に多少とも同情的になり、日本の復興とその後の日米友好の礎となった可能性もある。その様な意味で犠牲者という言葉を使うのなら、そのような経緯が正しい理解なのかどうかについて日本国民とともに徹底的に解明すべきである。しかし、仮にそうだとしても、広島、長崎、東京、名古屋、大阪などでの大虐殺の被害者を、その理由の解説抜きに犠牲者と呼ぶべきではない。
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