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2018年8月7日火曜日

原爆で殺された人は犠牲者なのか?:日本の言語ヒステリーについて

以下に書いたのは昨日の記事の延長で、日本の言語文化についての議論である。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43723387.html 

1)昨日朝NHKで原爆忌の実況放送が始まった時、NHKのアナウンサーが原爆による死亡者数を紹介した。そのとき、死亡者数と言わないで“犠牲者数”という言葉を用いた。原爆で殺された人を何故犠牲者と呼ぶのだろうと疑問というか不快感を持った。

それは、“米国憎し”の感情を持ったからではない。(補足1)アナウンサーは単に死亡者の意味で使ったのだろうが、その言葉の使い方が老年の私には違和感があったのである。広島で殺された人たちは何かの「犠牲」になった訳ではないからである。

犠牲とは神に捧げる生贄のことである。 “犠牲者”を単に事件や事故による死亡者に言及する時に用いるのは、30年前なら明らかな間違いである。その証拠に、犠牲者という言葉は広辞苑(第二版)の項目にない。(補足2)

現在では、goo辞書https://dictionary.goo.ne.jp/jn/などで「犠牲者」の項を見ると、事件や事故の死亡者の意味と掲載されている。そのような急激な言葉の変化は、日本ではよくあることであるが、特有の現象である。それは言語の進化というよりも、混乱と言ったほうが正しいと思う。 そのテレビ放送のとき私が持った感情は、「広島の人たちはいったい何のための犠牲になったのか」という疑問とそんな言葉使いをするNHKに対する不快感である。(補足3)広島原爆での死亡者を犠牲者と言い換えるのは、その死を“無駄死”として扱うことに抵抗感があったのかもしれない。

しかし、神か何かの犠牲となったのでなければ、そのような言葉は使うべきではない。死亡者という言語に過敏な日本人は、犠牲者ということである種の重苦しさから開放されるのだろう。亡くなった人たち一人ひとりの命は、等しく大切な命であっただろう。そしてその人たちの辿った運命を、単に死亡という冷淡な言葉で言及する自分に、耐え難い気持ちになるのだろう。

しかし、その言い換えは事実の隠蔽につながる。悲惨な場面であればあるほど目を見開いて見るべきであり、その意思で事実と対峙することこそ、その死亡者への礼儀だろう。そこで言語の言い換えに逃げるのは、幻の言霊に怯む弱い日本人の姿である。それは信仰というより、人間としての弱さとそれが招いた言葉アレルギーやヒステリーだろう。

2)日本人の言霊信仰論を唱える人は、悲惨なことをそのまま語ると口にした言葉が現実となると感じる(信じる)からであると分析する。日本人は、言葉には霊的な力があると信じているようである。その言語文化は、言葉の使用を困難にし、人々を沈黙に導く。NHKこそ、その旧弊を打ち破らなければならない筈である。

言葉に対する過剰反応は至る場面に存在する。例えば、結婚式の挨拶では「切れる」「別れる」「死ぬ」などの言葉は避けるべきであると、教えられた経験を持つ人は多いだろう。(補足4)受験生の居る家庭では、落ちるとか滑るとか云う言葉を避ける。本当に下らない文化である。

日本人の言葉は、霊により湿っている。人に対する、細やかな心使い、おもてなしの心など、その霊に湿った言葉と一体となって人の社会の空気を作る。その空気の下で、国民の独立心は抑え込まれ、相互に優しさフェロモンを放出する義務を感じる。

そこには新奇性を尊ぶ雰囲気や、独立して自己主張する生命力、創業の精神などは育たないだろう。それが現在日本を覆う暗雲の一つの原因だと思う。普通、生命はエゴイズムに体を付けたような存在である。個々のエゴイズムを調整するのが言葉を用いた会話や議論である。会話と議論があれば、そして人の立場に立つという視点を持てれば、原点としてのエゴイストは自然ではないか。(補足5)

私は、先ず小中学校の国語教育を改革すべきだと思っている。古い文学などを教える教育は控えて、議論と論理を重視する教育にすべきである。それが独立した人格をもった人間を育てるだろう。そして、個人の自立を前提とする本来の民主国家に、日本が成長できる可能性が出てくる。

井沢元彦氏の著書に「言霊、何故日本に本当の自由がないのか」がある。その本の巻末に大前研一氏が「言霊の弊害を知らずして、日本の再生はあり得ない」と題する短い解説文を寄せている。その最後に、「日本人は言霊故に、人前で多くを語らない民族になってしまった。」と書いている。

3)言霊ヒステリーの生じる背景:

日本の言霊信仰、つまり、言語的集団ヒステリー文化が何故生じたのか?以下に一つの仮説を述べる。

日本は自然災害が多い国である。地震に台風がその典型であり、日照りや冷害など異常気象も昔から多かっただろう。日本の民にとって、命の危険は外敵ではなく、自然からもたらされるのである。その予測出来ない自然に対して、武器をとって戦うわけにはいかない。ただ自然を司る神に祈りを捧げるだけである。それが古来の神道の姿である。(補足6)

神を信じる動機は別に存在するのだが(補足7)、自然災害を神の意思と考えて、神に通じる祈りの言葉と儀式を考え続けただろう。そしてその祈りの言葉にも拘わらず、自然災害に見舞われた場合、その言葉に神が怒りを覚えたと考えるのは不思議ではない。

その神へ祈りを捧げる風習の中で発生したのが言霊だろう。日本の”言霊信仰”と呼ばれる現象は、自然災害に会わぬように祈りの言葉を神々に捧げる風習の中で、その言葉選びに神経をすり減らした結果の言語ヒステリー現象だと思う。

「今回の台風の犠牲者は数十人に登った」という言葉を聞く時、上記の原爆の犠牲者という言葉を聞いた時ほどの違和感を感じないのは、我々は神道の信者だからである。被害者を犠牲者と言い換えることで、神の怒りを鎮める効果を感じているからだろう。しかし、その言葉の使用法はなるべく避けるようにすべきである。科学技術文明を駆使して、死者が出るのを防ごうという意思の発生にマイナスとなるからである。

一方、外敵が命の危険の第一の原因なら、外敵の動きとその理由、防御の方法と体制を論理的に考える事が可能である。そこには言霊の入る余地はないのである。

補足:

1)米国の一部勢力が憎いとしても、その中心に居るのは原爆投下を命令したトルーマンではない。戦争を始めたルーズベルトを頂点とした勢力だろう。その裾野は広く、ヤルタ会談に出席した人々も入るだろう。更に、近代日本を無謀な軍事国家にした無能な戦前の日本政府も入るだろう。

2)広辞苑の第二版には犠牲者という項目はない。単に犠牲になった者の意味であり、“犠牲”と“者”の和(加算の意味)に過ぎないからである。野球における犠牲打は犠牲の解説の後ろにサブ項目として存在する。
人が犠牲になった例としては、神の怒りが過ぎ越すように命を捧げた(と信じられている)、イエス・キリストがある。その血と肉により、信者は神の怒り(不埒な人間どもに対する)から生き残るのだろう。

3)原爆投下により日本の降伏は早まった。その結果、北海道へのロシア侵攻ができなくなった。広島と長崎での虐殺人数と同程度の人命が、助かった可能性がある。従って、身代わりになったということはできるが、しかしそれでも犠牲者とは言えない。

4)言葉に乗せる付加的なものを霊と一言で片付けることも可能だろう。ここはその“霊の構造”を議論したのである。この言葉と霊の複合体が一般の言葉である。僧が仏壇や墓石の前で上げる経は、中心となるべき言語の概念が抜けた霊のみの言葉だろう。日本では、南無阿弥陀仏の南無の意味すら知らない仏教徒がほとんどだろう。

5)宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」にある。その生き方を、学校教育では素晴らしいと称賛する。しかし、何故理由も無いのに、人にやさしく自分の欲望を抑える人生を素晴らしいと礼賛するのか? 私は、その日本文化が鏡の自画像を見るように嫌いである。それを歌ったのが、井上陽水の「わかんない」という歌である。

6)伊勢神宮を中心とした伊勢神道は、天皇家が神道を利用して権威の中心に育てたものであり、オリジナルな神道とは全くことなる。

7)神を考える動機、或いは宗教が存在する理由は、人が神などの助けなしに死を乗り越えられないからである。
尚、先の大戦では、おそらく米国を牛耳るユダヤ資本の考えを重視できずに、国家の存亡をかける戦いに負けてしまった。それは、明治の元勲たちが国家の運営から身を引いたことが切掛だろう。天皇を現人神にして、国民の間の言語ヒステリーを逆手にとって、国難に臨み一時は成功した。明治の元勲たちは自分たちの仕組んだ国家の弱点を知っていた筈である。天皇を利用するとい万能の剣の使い方が、分からなくなったのだろう。

2 件のコメント:

  1. 犠牲になると言うことは、その結果何らかの見返りが残された者に与えられることだと、私も考えてきました。
    ですから、豪雨災害の、地震の犠牲者という表現に違和感を覚えてきました。仰るように原爆死者は、まさに虐殺の被害者です。
    最近のマスコミの言葉遣いは、真の意味より、揚げ足をとられない、非難を受けないことだけを考えて選択されていると思います。

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  2. コメントありがとうございます。主なる主張は、言葉に感情や感覚を乗せることで、論理的に会話や議論が出来なくなっている日本の言語文化についての現状と、その批判です。広辞苑ではその後の版で、犠牲の意味として自然災害で死亡することも付け加えられたようです。
    日本語は、その乗せる感情や感覚に振り回されて、語意が10年程でかなり変わるようです。

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