1)同性間のパートナーシップを同性婚と呼び(補足1)、その関係を法的に結婚と同等と見做すかどうかが、議論されている。それを認めることは、戸籍法や財産権等を定める法律中の結婚(婚姻)や配偶者を、“同性婚”とその相手方を意味する言葉に読み替えることになる。それに関して、自民党など保守政党は反対であり、野党の民進党、社民党、共産党などは賛成である。
しかし、この同性間のパートナーシップ(“同性婚”)を従来の結婚と同等なものとして、現在の法を読み替えることは言語学的には無理である。更に、何よりも問題なのは、従来の結婚や家族を軽視することに繋がり、それは社会に混乱を持ち込む。
また、LGBTではない正常な同性間にもその様な関係を認めざるを得ないだろう。その結果、その関係を利用して相続税などの対象額を少なくすることなどに利用される可能性もあり、その点でも社会に混乱を起こすなど、問題点が多い。
杉田水脈氏の“同性婚”に関する新潮上での記事は、上記のような社会の混乱を意識しつつ、法整備などに関連して生じる様々な行政コストなどから、“同性婚”を認めるべきではないという主張なのだろう。元々“同性婚”を制度化することに賛成の野党政治屋らは、その中の攻撃し易い言葉尻を捉えて、大衆の反権力意識を醸成して居るのだろう。
2)仮に“同性婚”を認めるとしたときに、先ず大きな障害となるのは、“同性婚”は憲法24条に違反することである。それを既に安倍総理は指摘している。
憲法第24条: 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
この憲法問題を、小西洋之参議院議員(民進党)がlivedoor newsで粗雑に議論しているので、その反論の形で以下筆者の考えを述べる。小西氏は以下のように記している。(下線は本ブログ筆者による)http://blogos.com/article/316459/
実は、安倍内閣は、「同性婚は憲法24条に違反し、許されない」という解釈を何の根拠もなく打ち出していたのです。
発端は、2015年2月18日の参院本会議における安倍総理の以下の国会答弁です。 『憲法二十四条は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めており、現行憲法の下では、同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されておりません。』
しかし、憲法の条文を解釈する際に大切なことは、その条文の根本的な意味(趣旨)に基づくことです。
憲法24条が定められた趣旨は、明治憲法下においては結婚には家長や父母の同意が必要であったものを改め(家族制の廃止)、あくまでも、結婚を個人の自由意志のみに基づくものにし、結婚する個人の尊厳の尊重を守ることにあります。
であるならば、個人の尊厳は男女であれLGBTの皆さんであれ、誰でも絶対に尊重されなければならないものであるのですから、憲法24条1項の「両性」を「男女」と解釈する必要性はないし、寧ろ、そのようにしてはならないのです。
小西議員の考え方(最初の二つの下線部)によれば、家族制は廃止されるべきであり、それが現憲法24条の趣旨だという。その趣旨が憲法のどこにあるのか? 本来憲法制定の趣旨は、前文に書かれるべきだが、個人の尊厳などという言葉は一切書かれていない。(補足2)また、同じ第3章の第13条には、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。
小西氏は、憲法24条の前に存在するこの憲法13条を読んでいないのだろうか。“同性婚”も含め、個人の幸福追求の権利は、公共の福祉に反しない限り尊重されるのである。“同性婚”という同性間のパートナーシップを結婚と同等と公に認めることは、生物としての有史以来生き残ってきた人類の基本的生活形態に反する。家族で子供を産み育てるという、結婚と家族の特別な意味を否定することになる。それは、社会を混乱に導くことになり、公共の福祉に著しく反するだろう。
結婚や家族関係を、社会における個人間の関係の一つに過ぎないのであり、特別視する必要など無いと言うのは、異星人の暴論である。それなら、結婚など憲法で記述する必要などないではないか。
つまり、「人は成長して家族を為し、子を産み育てる」という個人の人生が、社会の健全な形での維持つまり公共の福祉のために必須である。社会の健全な形での維持は、民族および国家の繁栄の要諦である。家族関係維持を社会における基本的制度と捉える考え方を否定するのが、野党政治屋の考えなのだろう。
同性の間の結婚を両性の間の結婚と同一視するということは、別の角度から見ればこのようなことになる。
3)「法はその趣旨に基づいて解釈すべきだ」との考えは、法解釈の基礎だろう。しかし、それはどちらの解釈が正しいかということが問題となる場合であり、両性を同性と読み換えることはあり得ない。それは、自衛隊は他国を攻撃するための戦力ではないので、憲法違反ではないという憲法解釈と似た流儀の憲法解釈であり(補足3)、常日頃小西氏の民進党、社民党、共産党など野党が反対している憲法解釈ではなかったのか。
民進党、社民党、共産党などが、同性婚を制度として認めるべきだと主張しているが、その為に憲法24条を改訂すべきとは言っていない。つまり、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の「両性」という語句など無視すべきだと主張していることになるのだが、この事には本当にびっくりである。
上の内容と一部重複するが、私の結婚と家族に対する考え方と、この記事の結論を以下に記す。
家族は社会の構造図において、個人の直ぐ上の階層に位置する基本的単位だと理解している。そして、家族は最初一組の男女が結婚し夫婦となってスタートし、子供を得て家族が大きくなる。家族は、次の世代の担い手を養育するという、社会において重要な機能の大きな部分を負担する。
家庭においては、父親と母親は別の役割を持つ。父は家庭を守る義務があり、母は家庭を維持し子供の養育の中心となる。その男女の子供養育の場(人間では家庭)に於ける役割分担は、基本的にはほとんど全ての哺乳動物に共通である。それは遺伝子レベルから決定されている。この男女の自然な機能は、家族との生活の中で(家庭の中で)子供たちに学習されるべきである。
子供のいない家庭も存在する。しかし、家庭を維持することは、社会の中に調和的に生きる上で、双方に益となる。結婚しない人や、離婚した人、配偶者と死別した人など、独身の方も社会には相当数いるだろう。上記の様な制度を維持することは、それらの人々から家庭を維持する重要性への理解を得ることに繋がる。更に、その制度により安定な社会が維持されれば、それら独身の方々の利益にもなるだろう。
勿論、LGBTの方々が、独自に契約を行なって安定なパートナーとなり、家庭を築くことは好ましいことだろう。しかし、それに対して一般のハウスシェアリングと区別して、行政が関与する必要はないと思う。
以上の様な趣旨で、憲法24条も解釈するのが当然である。それに疑義を挟む人が居るとすれば、異星人か、他国の諜報機関の為に働く人だと思う。
補足:
1)広辞苑第二版で結婚を引くと、「男女が夫婦になること」とのみ書かれている。同性婚などという言葉は当然掲載されていない。同性の間の結婚はあり得ないのであり、従って、「同性間のパートナーシップ」と言うべきである。
2)憲法全文には、国民主権、平和主義(諸国民の公正と信義の信頼に基づく国際主義)が書かれて居る。
3)「国家における自衛権は、憲法以前の自然権である。憲法9条第一項は、それを否定していない。自衛隊はその自衛権の行使のために存在する。それは他国を侵略し、攻撃するための戦力に当たらない。」 私は、この考えに必ずしも同意する訳ではないが、以上が自衛隊合憲論の考えだと理解している。つまり、野党が批判する自衛隊合憲論は、もう少し緻密にその根拠が組み立てられているのだ。
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