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2018年9月1日土曜日

善悪の二つの側面:公的善悪と私的善悪について

1)善悪には公的な善悪と私的な善悪(以下、助詞「な」は省略)の二つの側面があると考えると、社会の乱れとその原因が解析しやすくなると思う。公的善悪とは、学校や家庭などでの教育の場で語られ、我々の人格の中に入力されるべく存在する善と悪の体系である。それは、我々が所属する公的空間、つまり社会に存在し、社会の構成員に対して一定の圧力を持つ。一方、私的善悪とは、我々個人の心の中に作られた善悪の体系である。

私的善悪が、心の中に作られ存在するということは、その善悪と心の中の好みとが一致するということである。従って、社会の中に嫌々ながら従う善悪の基準があった場合、それは私的善悪としては組み込まれていないのである。(補足1)この私的善悪と公的善悪は、DNAの二重螺旋のように相互作用しながら存在する。

公的善悪はその地方(国)の文化の中に存在し、社会の構成員の私的善悪の中で共通するものが、何らかのメカニズムで移入され、変更される。私的善悪は、上に述べたように、教育機関などにおいて公的善悪の中から移入される場合と、父母や周囲の人間の私的善悪から移入される場合の、主として二つの道筋で作られ変更されるが、その過程は私的好みや性向により影響を受ける。

公的善悪と私的善悪の間には、必然として合致しない部分が存在する。その差異(ズレ)には、生命としての本能が関係している部分、その人間の所属社会における位置、性差年齢、健康状態などに関係した部分があるが、夫々を分析すれば一定の規則性がある筈である。

社会の安定性や信頼性は、①公的善悪の枠組みがその社会にしっかりと根付いていること、②公的善悪の枠組みが社会の隅々まで行き渡っていることで確保される。①はその社会に所属する人間が、概ね公的善悪からの移入により私的善悪を構築していること、それと同時に公的空間を意識しているかどうかにかかっている。②には、社会の不均一性があまり大きくないことが要求される。

以上、今回序論のみアップロードする。詳細な議論は出来れば今後引き続き行いたい。

2)序論にエピローグはおかしいのだが、この私的及び公的という二つの側面を持つ善悪の考え方を思いついたプロセスについて、整理せずに書いてみたい。上記のようなことを書こうと思ったのは、以下の出来事を見聞きし、経験したからである。

この2日ほど、学校の宿題をメルカリなどで販売している人が居るという話が話題になった。この話を、カール・ポランニーの著書「大転換」の中で引用された「悪魔のひき臼」という言葉で、社会の大きな変化と捉えて話をしている人がいた。

また、15年以上前になるが、子供の同級生が学校(私立進学校)のテストの時間に、自分の苦手な科目の回答を教え合うという不正行為の約束をしたという話を聞いていた。その不正の中心にいたのが、帰化人ハーフの女の子だった。

それとは直接関係は無いが、日本国の政治における脆弱性の原因として、この国には現実主義が根付かないことがあると思う。現実主義の反対が理想主義である。その、虚しい理想主義を唄ったのが、私が最も評価する歌手であり詩人(作詞家)である、井上陽水の「わかんない」である。

そこで歌われたのが、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」である。http://www.ihatov.cc/monument/034.html 理想主義を現実の中に探したその詩人宮沢賢治の詩である。「そんな馬鹿な」と思っていたのは、ちょっと馬鹿だったのかもしれない。何故なら、その世界を現実に生きている人がいたからである。

今月中頃行方不明になった男の子を探す為に、ボランティアとして参加した男の人が、数十分で簡単にその子供を発見した。その方が、男の子の気持ちを誰よりも理解する能力があったからである。その子の親からの謝礼としてのもてなしを、その方は一切拒否した話を聞いた。その方なら当然のことだと直ぐに理解したが、同時に新鮮な空気を吸ったような気分になった。まさに、プロフェッショナルなボランティアである。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の主人公のような人が、この日本に実在したことを知り、驚くと同時に心を洗われる気持ちになった。http://news.livedoor.com/article/detail/15168563/ (&そこの引用サイト)

補足:

1)例えば、「人の物を盗むこと=悪」という善悪の基準が、私的善悪の中に組み込まれていれば、その人は「窃盗などしたくない」と思うし、窃盗犯を憎み蔑む感情がある筈である。しかし、生命としての本能は、飢えて生死の境界を意識したときには、人のものを盗っても食べて生き延びることを選択するだろう。山崎豊子の小説「大地の子」の中で、陸一心と育ての両親が、長春のチャーズをくぐり抜ける時の光景(小説の中の)が目に浮かぶ。陸一心はそこで、現実主義と理想主義の”接点”を学ぶことになっただろう。

6 件のコメント:

  1. 本論はこれからなされると思うが、それとは別に、あの2歳児を見いだしたボランティアの話を、本気で信じておられると知って愕然としました。
    あの事件は,報道を見ている限り、誰かが嘘をついており、マスコミが”忖度”をして、真実を追究していないとしか思えません。あまりにも不自然、不思議です。従って、そのボランティアとか言う人の行為を基に善意を論じられるとは。。。。

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  2. QーKazanさん:
    あのボランティアの話はマスコミだけではなく、地方公共団体にも広がっています。表彰されていますから。
    あの善意は、完全に私を捨てて、社会に貢献するという生き方です。究極の理想主義です。宮沢賢治の詩が日本の古典として生きているのは、それが日本の文化に由来することを証明しています。したがって、諸外国ではありえない話ですが、今の日本でもありえると思います。発見時間が短かったのは、知恵です。あの状況では、子供は本能的に上に向かうというのは、そのうちの一つです。
    不自然に見える部分、その根拠或いはそれを指摘しているサイト等を教えてください。日本の善悪は、上記の二つの善悪体系の重ね合わせです。その片方に完全に一致する善悪基準を持った人も、少ないがいると思います。

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  3. 全く信用していない根拠
    1.発見が早いと言っても,失踪して、2昼夜過ぎています。それにしては発見時の幼児の姿が元気すぎる。母親も。
     また、大人でも転びそうになる足場の道をほとんど無傷で、素手で這い上ったのでしょうか。
    2.冷静に、「ぼく、ここ」なんていえますか。泣きもしないで。。。。発見時の様子をおっさんが語っていましたが。
    3.2昼夜飲食していない赤ん坊に袋入りの飴を渡す馬鹿がいますか。脱水状態に近ければ、飴を溶かす唾液も不十分なはず。(井上靖の山岳小説の知識より)。沢の水を飲む知恵があったのでしょうか。
    4.数(あるいは十数)メートル先に、パンツが脱ぎ捨てられていた。と直後のニュースは報じていた。彼が残した遺物(多分排泄物)などを追跡して、子供の軌跡を追う予定とも。でも、それらは、その後報じられなくなった。たとえ、飲み食いしなくとも,排泄はするはず。汚れたパンツを自分でぬいで、身を清潔にしていたのでしょうか。子供を育てた経験の無い私ですが。
    4.当夜、防災放送で、”出ておいで”と家族がよびかけた、と報じられています。小学生が,家出したのならいざしらず。むしろ、鳴き声を頼りに探すのが普通でしょう。
    5.なぜ、父親が出てこない。(ちらとどこかで、一度報じられていたが。仕事があった?)
    二歳の誕生日を迎えたばかりの幼児なら、3日目となれば,死んでいるか,虫の息と見て探す方がまともとおもうのです。それを想定して捜査していた人々が無能あつかいされていましたが。
     「私の推論」:理由は知らないが大人(多分父親)がかくまっていた。どうやって収束させるか困った父親(と仮定する)が、ボランティアの話を思い出し、彼に連絡を取って、発見場所、方法を手配した。そして、数時間前に,よく言い含めて、あの場所に子供を置いた。子供は、ボラのおじさんを見知ってしいるから、平然と、ぼく、ここ、あるいは、おじさん、ここ、と呼びかけた。ボラの人が、子供を直接親に手渡すことに固執したのは,子供が、うっかりしたことを口走ることを恐れたから。
    一晩くらいなら、もう少し本当らしかったでしょうが、時間がかかりすぎ、3日もたってしまったので、多少とも意地悪な人間なら、疑いを抱く状態になった。動員された、消防隊員などが気の毒だと思います。
     なお、あなたが引用されたサイトは、すでに削除されています。
    以上、ながくなりすぎました。

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  4. QーKazan'さん: 疑問点の話は理解できました。確かに父親が出てこないのは何故かと不思議でしたが、あまり深くは考えませんでした。2歳の子供が2日間野山に残され、その後発見された時、どのような状態でどのような反応をするのか、さっぱりわかりません。20分で発見というのは、疑われる可能性がありますが、何故、一時間半とか言わなかったのでしょうか? ただ、ボランティアの人の定年後の生き方も嘘でしょうか? ボランティアの爺さんと父親の接点は何でしょうか? 

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  5.  たしかに、ボランティアの爺さんと父親の接点が問題で、此が私の推論の弱点です。しかし、以前の女児のケースで有名になったのなら、その記事を見ていたのなら,探す方法はあったでしょう。それが、3日もかかってしまった原因かも。
    もう一つ、彼は捜査を始める前に家族に会って,必ず見つけて連れてくると約束しています。1回くらいの経験で、そんな約束できますか。
     最後に、彼の定年後の生き方ですが、彼ほど徹底していなくても,ボランティアにのめり込んでいる定年後の人は多いです。
    自他共に充足感が得られて、暇が潰せますから。健康で、車で寝泊りできるなら、旅行的な楽しみもありますし。
    あまり、有徳の人物と持ち上げる気にはなれません。

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  6. Q-kazan さん;1)ボランティアの方の「必ず見つけます」という約束ですが、それは一般の日本人に良くみられるおかしな言葉の使い方です。甲子園で応援団に、「今日の予想は?」と聞くと、ほとんどの人は「内の高校が必ず勝ちます」と言うでしょう。政治家レベルでも、知的にレベルが低くて、性格的に狡い人は、この種の「希望と予想の混同」を行って、差し当たり票を得ようとします。
    2)ボランティアの爺さんを聖人のように考えている訳ではありません。その種のボランティアに、定年後のめり込む人が大勢出る日本文化に注目しているのです。宮澤賢治がそう言う人に私はなりたいと詠った「雨ニモマケズ」の人物は、このボランティアの人と同様(私の上記モデルでは)、生命体である自己の本性を極端に抑え、私的善と公的善の間の支点(自分の行動)を極端に公的善に近づけた、バランスを欠いた生き方の人だと思います。
    3)このモデルは、私のオリジナルというよりも、山本七平の考え方のコピーだと今では考えて居ます。
    なお、山本七平のモデルでは、何かの拍子に(耐えられなくなった結果)、このような生き方はちゃぶ台返しのように、突然取りやめになる可能性があります。完全に自己の都合を最優先する”原点”に戻るのです。

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