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2018年9月3日月曜日

善悪の二つの側面(II)善悪基準と政治文化

1)善とは、生きる空間を共有する個人が、その共有する空間を良い状態に維持するためにとる行動と、その為の自己のエネルギーや財の積極的な負担を、形容し計測する概念である。(補足1)悪とは、自己の利益を優先して、共有する空間等の悪化を招くことに対する、善と対をなす概念である。 

同一の社会に生きる人間は、善と悪の体系(行動を分類した体系)を共有する。従って、善悪の体系は普遍的ではなく文化的である。人間が棲む社会が国境で分断されていれば、人間の行動に対する善悪判断もそこで分断される。 

前回の議論で、素人が大胆にも、善悪を公的と私的に分けることを提案した。ここで、公的善悪と言っても各個人が “おおやけの善悪”として意識するもので、支配者が公布した規則によるものではない。社会の多数の構成員が共通して合意する善悪と定義する。公的な善は、社会の安全と繁栄(つまり健全)を維持する責任を果たすために、個人又は個人の集団が取るべき行動を形容する。

私的善悪は、社会的存在としての個人に主眼点をおいて定義する各個人に固有の善悪である。ここで、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考え、その中で許容される個人の幸福や安寧を考える。私的空間でも、社会的存在としての自分を自覚する場合、社会に対する貢献は私的善の大きな比重を占める。(補足2)しかし、個人の生活や欲望充足との釣り合いがとれなければ、その特定の個人の行動として成立し得ない。

生物としての自己は、その私的空間の奥に存在すると考える。社会の中で社会に依存して生きる人間は、社会の安全と繁栄なくしては生きられない。従って、公的善悪は私的善悪とは共通する場合が多い。また、両者の共通する部分がほとんどなければ、社会を構成する個人が支配者と被支配者に分断される以外に、社会は安定的に存在し得ない。(補足3)

つまり、住民全てが社会の運営等に参加する社会においては、社会の安全と繁栄および個人の安心や幸福が同時に成立するためには、私的空間を公的空間と連結する形で持つことが必須だと思う。また、公的空間が存在しない場合も、支配と被支配の関係に個人が置かれていることになる。

2)隣の大国は、皇帝が支配する帝国から、孫文らによる民権主義の短い期間を経て、共産党党首による帝国類似の国家の時代が続いた。そこに棲む人たちの意識としては、おそらく家族、大家族、同志的知人の人的ネットワークが生きる空間だと感じていただろう。鄧小平時代から進んだ経済活動の自由化があっても、公空間を意識することはそれほど進まなかった筈である。

従って、公的善悪の意識は一部の知識人や上層階級を除けば、あまり存在しないと考える。人的ネットワークの空間を擬似的な公空間と把握するとしても、それには限界がある。それが、話をしたことのない人、見えない第三者に対する義務感が希薄な理由だと考える。そのことについては既に、「中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について」と題する記事で議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/07/blog-post_27.html

その中国人の性質は、政治文化と政治体制が原因であって、中国人の本来の性質ではない。日本人も米国人も、同じ歴史の中に生きれば、同様の善悪基準を持つ筈である。

直ぐ隣の国でも同様であった。李氏朝鮮時代の厳しい身分制度は、社会を分断し、一般民が公空間を意識することは考えられない。国教であった儒教は、その身分制度を温存することにつながった。一時話題になった大韓航空のナッツ姫事件や、その妹の態度は、身分制度や儒教の悪影響の結果だろう。https://www.bbc.com/japanese/43748707つまり、公空間とそれによる全国民的な公的善悪など想定できる筈はない。

一方、日本では、儒教の影響は学問の領域に限られ、神道という自然崇拝が文化の中に定着していた。身分制度は人工的に持ち込まれたものの、心の中にまでは定着していなかったようである。それは、明治天皇の歌、「四方の海 皆同胞(はらから)と思う世に。。。」の“同胞(はらから)”という単語を見てもわかる。江戸時代の将軍綱吉の「生類哀れみの令」も、本来弱者保護のためにだされたものだったと再評価されている。明治以降、西欧の制度を取り入れて、身分制度を廃止できたのも、そのような背景があったからだろう。

つまり、日本の文化の下では、公空間を意識することが容易にできる筈である。それが日本が民主国家として一応成立する理由である。西欧諸国での公空間については、次の機会に考察する予定である。

補足:

1)スタンダールの本「de I’Amour (恋愛論)」に以下のような文章があるそうです。I honor with thename of virtue the habit of acting in a way troublesome to oneself and usefulto others. 自分にとって厄介で他人にとって役立つように振る舞う性癖を善(徳)という名で讃える。

2)善なる様々な行動も「善」一文字で書く。つまり、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」一文字で表す。

3)この考え方が、独裁制で安定していたアラブに民主化を持ち込んだ際の結末を説明する。カダフィを排除暗殺すれば、リビアが内戦状態になることは、米国の戦略家にはわかって居た筈である。

2 件のコメント:

  1. アラブの場合は,中国や韓国より更に救いがないのでしょうか。

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  2. Q-Kazanさん: その件についてはもうすぐここにも新しい記事として書きます。

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