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2019年7月23日火曜日

京都アニメ放火事件の動機について

1)

京都アニメ放火事件ほど残忍な事件はない。個人的犯罪としては、過去最悪なケースだろう。我々日本人の中に、このようなことが出来る人が居るとは信じられないほどの事件である。

動機については、自分の書いた小説、或いは、自分の考案した言葉を、アニメに無断利用されたことに対する恨みだとかいう説が多い。しかし、単なる経済的不利益に関する恨みなら、このような大犯罪にはならないだろう。ただ、犯人がもし意識を回復して警察に動機を語る場面があったのなら、そのような話をして誤魔化す可能性もある。

そこで直ぐに浮かぶ動機がテロである。実際にそのような主張がネットにある。 https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12496761121.html

しかし、私はテロではないと思う。テロならもう少し周到に準備されていた筈だと思う。ガソリン40リットルを撒いて火をつけるという泥臭い手法は、テロの手口ではないと思う。テロなら、強力な爆薬や毒ガスを使う可能性がたかい。

テレビでは、ルサンチマンという言葉で、この事件を語る人も居る。ルサンチマンとは社会の上層部などに対する恨みという意味だろうが、集合すれば大きな社会的事件或いは政治テロなどに繋がるだろうが、個人では、上層社会などへの恨みと訳されている以上のものではないだろう。

片田珠美という精神科医が、ネットニュース(Business Journal)の記事で「この放火事件は無差別殺人と考えられる」(記事5行目)としている。その記事のなかで片田氏は以下のように書いて居る。https://bizjournal.jp/2019/07/post_110279.html

無差別殺人犯は、長年の欲求不満を他人や社会のせいと思い込んで怒りと恨みを募らせ、復讐願望を抱く他責的傾向も強い。何らかの精神疾患によって被害妄想の可能性もある。しかし、犯行は引き金がなければ起こらず、それは本人が「破滅的な喪失」と受け止めるような喪失体験であることが多い。犯行後に「パクリやがって」と声を荒らげたというので、かつてアニメに何らかの形で関わっていたのかもしれない。あるいは、アニメに強い思い入れや執着があるのかもしれない。

私は、無差別殺人でなないと思う。従って、引き金としての「破滅的な喪失」など、他人の目に見える体験など無かった可能性が高いと思う。ただ、この最後の「アニメに強い思い入れや執着がある」という言葉に注目した。

2)

私がこの事件を考えていて思いついたのは、三島由紀夫の小説「金閣寺」の放火との類似である。その考えが正しければ、この事件は無差別殺人事件ではなく、京都アニメ破壊事件である。犯人には、働く人たちを数人殺害するだけでは物足らず、京都アニメそのものを消し去ってしまおうと考えたと思う。それが40Lという大量のガソリンを撒いて放火した理由だろう。

先ず、小説「金閣寺」放火の解析を振り返る。勿論、小説上の話であり、実際の放火事件には必ずしも当てはまらないかもしれない。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/07/blog-post.html

小説では、主人公の溝口は、生まれながらの吃音のハンディを、凝り固まった劣等感として持ってしまう。その所為で、消化し切れない欲求不満を溜め込むが、その心理を自分が僧侶として弟子入りをしている金閣寺の美への憧れで心理的バランスをとる(誤魔化す)。そして、徐々に募る不満とバランスをとるように、金閣寺の美が心の中で拡大する。(補足1)

そのうち何度か訪れた、人生好転の機会と思われた時に、決まって心に金閣寺の幻影が浮かぶようになり、そのチャンスを逃すことになる。そして、何時の間にか心の中で金閣寺の空襲による焼失を願うようになる。しかし、空襲は結局無かった。(補足2)

そこで、逆に邪魔で憎しみの対象となった金閣寺に放火し、悩みふかい自分の青春時代と一緒に消滅させようとした。その時、自分の人生が終わっても仕方がないという覚悟があっただろう。(実際、現実の金閣寺放火犯はその後自殺を試るが、未遂に終わる。)

今回の京都アニメの事件でも、犯人は京都アニメの作品に強い執着をもっていたのだろう。それは、本来の自分の趣味の対象としての執着から、自分のままならない人生で蓄積された欲求不満と心理的バランスを取るための存在としての意味を持つようになったのだろう。しかしその愛着は、際限なく大きくなることなどはあり得ない。

もはや京都アニメへの憧れなどでは抑えきれなくなったとしても、京都アニメはそのまま存在し多くの人に愛し続けられている。そして、徐々に強い憎しみに転換されたのだと思う。心理学でいう“同一化”(補足3)が不可能になったのだろう。

実際の引き金はいろいろ考えられる。その中には社会的なものもあるかもしれないし、アイデアを盗まれたと思い込むこともあったかもしれない。しかし、それらは単に引き金であり、爆薬ではない。つまり、動機をいくら探しても、その犯行の本質的動機を探し当てることは、警察本来の発想では無理だろう。

大量無差別殺人などの事件では、全て直接的動機は引き金でしかない。被害の大きさは、爆薬の大きさで測られるべきである。引き金をいくら眺めても、その大きな被害の原因としては不釣り合いだろう。

補足:



1)この蓄積する不満と何かに対する憧れをバランスさせるのは、心理的な代償行為だと思う。全く異なる様に見えて同類の代償行為に、何かへの恨み、抵抗、憎しみなど負の価値で、バランスを取る場合もある。この負の感情を、心の中の異なった場所(天秤の反対側の様な場所)に置く事で、バランスが取れる。不満が大きくなった場合、前者の代償行為から後者へのタイプの転換が起こる場合が多いと思う。つまり、可愛さ余って憎さ百倍のケースの一つである。
小説「金閣寺」の中では、「金閣寺の美」への憧れが、空襲による焼失を願う気持ちに変わったのも、心理的代償の変換だろう。

  2)それまで憧れの対象として心の中心に置いてきたのだから、その最高のものに入れ替わる何かが視野に入った時、幻影として現れるのは、特別なことではないだろう。ただ、小説「金閣寺」に書かれたような場面で、幻影が現れたとしたなら、その憧れも相当レベルの低いものだったのだろう。実際、小説の最初の方に、元々、金閣寺をそれほど美しく思った訳ではなかったと書かれている。

3)同一化とは:「自分が尊敬する人物などに対して自分自身の存在を重ね合わせていき、相手に対して強く感情移入していくことによって、その人物が経験するすべてのことを我がことのように感じて一喜一憂すること」https://information-station.xyz/10576.html

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