ロシアのウクライナ侵略を契機として、日本では防衛論議が盛んである。週始めの7日、三橋貴明氏の「恐らく今年中に中国は台湾への介入を開始し、台湾有事になれば即日本有事になる。それに備えて、日本は米国との核シェアリングするか、独自核武装をするかの議論を急いでする必要がある」という言葉を紹介した。
私は、核武装以前にするべきことがあると思う。それは、国家の在り方、防衛の在り方、防衛戦略の考え方を、国民の間に、そして政府・議会の中にまともに育てることである。急場凌ぎの核武装は、気狂いに刃物の危険性がある。
更にそれ以前に、日本にはするべきことがある。それは日本国が他国とのコミュニケーションがまともにとれる国にならなくてはならないこと。例えば尖閣諸島に中国公船が領海侵犯したと言いながら、その中国船とまともなコミュニケーションが出来ていない。警告射撃などしないでただ進路妨害をだけの対応は、人の社会では口の訊けない人か自閉症の方の対応である。
日々放送される尖閣での中国公船の領海侵犯とか、接続領域侵入の船の数などは、何のための放送なのかわからない。
また、北朝鮮に横田めぐみさんが拉致された10月5日が来る毎に、”恒例”の拉致被害放送がTVで流される。これも何のための放送かわからない。
拉致被害の解決を政府は言及するが、実際は何もしない。北朝鮮は解決済みと言い、日本側は未解決だと発表する。原点から一歩も解決の方向に進まない。北朝鮮の言葉が嘘だというのなら、武力以外では解決の方法がないことは明らかで、それを明確に国民に言うべき。政府が知らない筈はない。
このような政府に不信感と不審感を持たないのは、或いはそれらを持っても何も発言しないのは、日本人の文化に知らぬ人のわからない行動に対して、尋ねるという文化が無いからである。尋ねるような言葉を発するのは、敵とみなしてからである。その時には河内弁で、「馬鹿、どけコラ❗️」と怒鳴られるのは、初めての会話としては良い方である。(補足1)
それは日本には一歩家庭や会社のような“共同体”の外に出れば、物理的な人は居ても社会的な人は消滅することと関連している。何をアホなことを言っと るという人は、次の写真を見てもらいたい。
街中の看板や幟である、一体何を狙ってどの程度の効果を考えて、多大な経費をかけて態々街の美観を損なうこんなものを掲げたり立てたりするのか?犬に街角で糞をさせても知らぬ顔で立ち去るような人物に何も面と向かって言わないで、こんな掲示をして効果があるとでも思っているのだろうか?
夜間に痴漢が出没するとしても、このような旗を立てて何の効果があると思うのか? 「大人が変われば子どもも変わる」(小学校のフェンスにあった)何のこっちゃ。
北朝鮮の拉致を知っても、「拉致は人権侵害です。やめましょう」と海岸に幟を立てるのと、現在の政府の拉致問題にたいするアクションはほとんど同じである。つまり、政府の無策も日本の文化(文化と言えないような街づくり文化)と同根なのだ。
明治維新といわれるクーデターにおいて、大きな力となったのは、薩長が偽造して掲げた錦の御旗である。田舎の釜戸には、今でも愛宕神社のお札が貼られている可能性が高い。まあ、神や仏相手なら直接話はできないのだから、札や旗しか無いのかもしれない。しかし、人間が相手なら、まともにコミュニケーションを図るのが人類の文化だろう。
2)結論:
以上、国際的にノーマルなコミュニケーション文化を作り上げてから、国際社会での日本の存在を認めさせ、独自防衛を始めるべきだろう。当然、核武装は必要である。中国と米国の反対には、必要なコミュニケーションで解決を図るべきで、それは戦略的構想の下に運動を継続すれば可能だろう。
(11:45 編集あり;翌朝日本語編集)
補足:
1)1ヶ月ほど前、スーパーのレジに並ぶ時、少し離れた後方に親子連れの客が居た。列に入ると小学校5年生位の女の子が、鋭い視線で私を睨む。そこで、「列に並んでいたのですか?」というとうなづくので、彼女の背後に廻った。この間、母親らしき人は知らぬ顔をしていた。これって、どこか変だと思いませんか?
0 件のコメント:
コメントを投稿