ウクライナ戦争が日本国民に与えた教訓は、防衛力の不足は国を滅ぼすということだろう。そして、国が滅ぶことは自分たち国民の死を意味することも分かっただろう。(補足1)その結果、日本の保守系の人たちの間で盛んなのは、日本も核武装すべきという議論である。
私は、この変化は一応健全な方向なのだが、非常に危なっかしいと思う。何故なら、中国やロシアは恐ろしい程の脅迫を日本政府にするだろうから、事実として核武装は不可能であると先ず考えて足元を見るのが、緻密な議論の最初のステップだと思うからである。
更に、米国も核のシェアリングまでは賛成しても、日本の独自核武装は決して許さないだろう。(補足2)敵も味方も日本の核武装には反対だということに気づくべきである。つまり、米国には日本の政治はいつ暴走するか分からない子供のような体制にあると評価されている筈である。
上の討論番組では、まだヤルタ・ポツダム体制までの歴史を日本は学んでいないことに気付いているのだろうか。砂地に基礎もなく、鉄筋の家を建てるようなことを考えるのは、日本の知性そのものの欠陥を表している。日本の低迷は、そもそも日本文化に原因があることに気付くべきだ。(補足3)
マッカーサーの「日本の民主主義(政治体制)は12才である」という発言は、日本の弁護としてなされたのだが、日本は馬鹿にされたと誤解した。そして、日本はマッカーサーの言葉通りであることを証明した。「まあ、12才なのだから仕方ない」と彼の人も納得しただろう。
そこから成長したか? その時には、体制は12才だろうが、政治の人材は今よりはるかに優れていた。それは失礼な言い方かもしれないが、鳩山一郎と鳩山由紀夫や岸信介と安倍晋三を比較すれば分かる。
何が言いたいのか? 国家の防衛の第一歩は、諸外国とまともに交渉ができる政府を持つことであり、核兵器を持つことではない。米国から真の独立を達成することが大事だが、それには独り立ちする能力を持たなければならない。
そのことを考えずに、いきなり核武装すべきとネットで議論するのが、日本の知性ある?保守の姿である。それは、非武装中立を叫ぶ左派と同レベルではないのか?
追補:
自民党の一部の方々が、ウクライナ戦争に関して、①ロシアプーチンが領土的野心により国際法に違反してウクライナに攻め込んだ、②それが防げなかったのはウクライナが核武装していなかったからだ、という理解の基に、核武装の議論を始めるべきと言っていると考えて上の文章を書いた。
この理解は、今朝のザプライムで小野寺元防衛大臣の言葉に一致している。そして、その単純で偏った理解で、日本も武器供与という形でロシア攻撃に参加しているのである。その様な理解で核武装論議をしては、再び核攻撃の的になる。兎に角、日本は明治維新時代からの歴史を学習し直して、今後の日本を考える必要がある。それまでは、下手な動きはすべきではないと思う。
補足:
1)3月18日の文章「ウクライナ戦争から学ぶべきこと」をご覧いただきたい。
2)この件、以前の記事をご覧いただきたい。
そしてその中の”1967年10月、ニクソン大統領は外交専門誌foreignaffairs誌上で、ベトナム戦争に疲弊した米国は、もはや世界の警察官としての役割は十分には果たせないので、同盟国は「中国の野望」から自らを守るために、より一層の努力が必要であると述べた”を読んでほしい。「日本は核武装の議論をすべき」と議論しているが、本当に議論すべきは、「なぜ日本は今まで核武装の話を国会でしなかったのか」であることが分かるだろう。
3)ここで「日本の低迷は日本文化が原因」という言葉は唐突だと思われる方がほとんどかもしれない。ただ、日本の低迷と日本文化の関係は本ブログの中心テーマであり常に意識しているということである。日本の病根というカテゴリーに60本ほどの文章を書いた。例えば、https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12708481574.html
(12時編集、補足3を追加して最終稿とする)
0 件のコメント:
コメントを投稿